第66話「帰省回録」
立川駅前、あの喫茶店の扉を開けると、真鍮の鈴が、懐かしい音を立てた。
初めてここに来たのは、いつだったか。澪に、彼岸という組織の存在を、初めて聞かされた日。あれから、まだ数ヶ月しか経っていないのに、随分、遠い過去のことのように感じられた。壁にかかった古い時計、擦り切れたソファの座り心地――何も変わっていないはずなのに、颯太自身が、あの頃とは違う目で、この店を見ているのが分かった。
窓際の席、澪が既に座っていた。フードの隙間から、影行が、ひょこりと顔を出している。
「――お帰り」
その一言に、颯太は自然と、頬が緩むのを感じた。この一週間、聞いていなかった、あの素っ気なくも温かい声だった。
「ただいま、です」
颯太は澪の向かいに、腰を下ろした。店内には、あの日と変わらない、コーヒーの香りが漂っている。
「――で、どうだった。京都は」
颯太はこの一週間の出来事を、順を追って話し始めた。三条、黒川、天海――三人の大烏との対面。黒烏という階級。そして、黒川に叩きのめされた、あの最終試験のこと。
「三条って、あの、極右の爺さんだろ」
澪は思わずそう漏らした。
「知ってるんですか」
「面識はある。俺が新人だった頃も、随分、絞られたな」
「澪さんも、ですか」
「当たり前だろ。あの人は、誰にでも等しく厳しい」
澪は、コーヒーを一口飲んだ。影行がテーブルの上、颯太の方へと身を乗り出してくる。颯太は、その小さな頭を、そっと撫でた。
「黒川さんには、正直、かなりやられました」
「あいつは、加減を知らないからな。だが、実力は本物だ。あれで、直径の部下の数が一番多いんだよ」
「澪さんも、対峙したことが?」
「一度だけな。今でも、思い出したくない」
澪はそう言うと、僅かに遠い目をした。その表情には、颯太にはまだ計り知れない、何か重い記憶があるようだった。
「それと」
颯太は少し、声のトーンを落とした。
「天海さんから、伝言があります」
「――なずなさんが?」
澪の眉が僅かに動いた。その反応に、颯太は、少し、意外な思いを抱いた。
「澪さんのこと、気にかけてました。元気か、って。今度顔を出すように、とも」
澪はしばらく黙っていた。窓の外、夕暮れの光が、彼女の横顔を、静かに照らしている。
「――そうか」
「澪さんと、天海さんって、どういう関係なんですか」
その問いに、澪は少し間を置いてから答えた。
「――昔、助けられたんだ。俺が、まだどうしようもなく荒れてた頃」
「荒れてた、って」
「梵天丸のこと、話しただろ。弟を、自分の手で調伏した後だ」
颯太は静かに頷いた。あの、重い過去の話を、思い出す。
「あの頃の俺は、自分をどう扱っていいか分からなかった。彼岸からも、危険人物としてマークされてた」
颯太は、その言葉の重みを、静かに受け止めた。普段の、揺るぎない澪からは、想像もつかない過去だった。
「それを」
「なずなさんと、財前が拾ってくれた。当時、天海さんは、まだ大烏じゃなかったが、二人が本部に直談判してくれたんだ。"こいつは、まだ更生できる"って」
その話に、颯太は胸の奥が、じんわりと熱くなるのを感じた。澪もまた、誰かに支えられてきたのだと、改めて実感する。今、自分が受けている支えも、決して当たり前のものではないのだと、静かに噛み締めた。
「だから、あの二人には、一生、頭が上がらない。特に、なずなさんには、な」
「――そうだったんですね」
「あんまり、他人に話すことじゃないけどな」
澪はそう言うと、少し照れくさそうに視線を逸らした。影行が、その様子を面白そうにじっと見つめている。
「話してくれて、ありがとうございます」
「別に、大したことじゃない」
澪はそっけなく、そう答えた。だが、その口元には、微かな笑みが浮かんでいた。
颯太は改めて窓の外を見た。一週間前とは、明らかに違う自分が、ここにいる。澪という存在、そして、彼女を支えてきた人々――その繋がりの中に、今、自分も、確かに加わっているのだと、実感した。
「――で、これから、どうする」
澪の声が真剣な響きを帯びた。
「九尾の手がかり、追うんだろ」
「はい。黒川さんからも、不穏な話を、聞きました」
「風の流れが、妙だって話か」
「――知ってたんですか」
颯太は、思わず、目を丸くした。
「彼岸内部の情報は、俺のところにも回ってくる。銀烏だからな」
澪は静かに、コーヒーカップをテーブルに置いた。その仕草には、既に、戦いへの心構えを固めた者の、静かな緊張が滲んでいた。
「明日から、本格的に動く。覚悟しとけよ」
颯太は深く頷いた。影行が、まるでその決意を後押しするように、颯太の手にそっと頭を擦り寄せてきた。
窓の外、夕暮れの空が、少しずつ、藍色に染まり始めている。あの日、初めてこの店で、彼岸という言葉を聞かされた時とは、もう、何もかもが違っていた。あの頃の自分は、ただ、状況に流されるだけだった。だが今は、自分の意志で、この道を選び取っている。その実感だけが、颯太の胸に、静かに、しかし確かに根を張っていた。
澪が、静かに伝票を手に取った。
「――行くか」
「はい」
二人は、影行を連れて、店を後にした。喫茶店の鈴が、また、あの懐かしい音を立てる。明日から始まる、新しい戦いへの序章として。




