第65話「彼岸研修」
一週間の座学は、思っていたより、あっという間に過ぎていった。
彼岸の成り立ち、常盤や椎葉といった名家との関わり――そうした基礎知識に加え、颯太が最も驚かされたのは、組織そのものの規模だった。
彼岸は、京都の本部を中心に、全国を五つのエリアブロックに分けて管理している。九州沖縄、中央(関西・東海・中国・四国)、関東、東北、北海道。それぞれのブロックに最低一人は、八咫烏が配置されている。財前、陣内、もも――この三人が、関東ブロック全域を担う、いわば全戦力だった。
「――日本中に、こんな組織が、広がってたんですね」
思わず講師役の職員に、そう漏らすと、相手は静かに頷いた。
「妖という現象自体、全国どこにでも起こり得るものです。それに対応する体制がなければ、この国は、とっくに立ち行かなくなっています」
颯太は改めて、自分が足を踏み入れた世界の広さを実感した。これまで見てきたのは、あくまでこの巨大な組織の、ほんの一部でしかなかったのだ。
財前、陣内、もも。三条、黒川、天海。これまで出会ってきたのは、全国十二名のうち、僅か六名に過ぎない。九州沖縄、中央、東北、北海道――残りの六人は、まだ顔も名前も知らない存在だった。
いつか、その全員と顔を合わせる日が来るのだろうか。そう考えると、颯太の胸に、不思議な高揚と、同時に微かな緊張が静かに広がっていった。
最終日、財前と陣内は、一足先に東京へと戻っていった。颯太は一人、新幹線の座席に腰を下ろす。
流れゆく車窓の景色を眺めながら、颯太はこの一週間で得た知識を、頭の中で静かに整理していった。だが、それ以上に、颯太の中で強く残っていたのは、知識そのものより、三人の大烏、それぞれの姿だった。
三条守繁。あの厳格な佇まいは単なる頑固さではない。長年、御座という存在に、忠誠を尽くし続けてきた者だけが持つ、確かな重み。今回の試練を課したのも、颯太を試すためというより、彼なりの組織を守るための責任感だったのだろう。あの静かな眼差しの奥には、この組織を何十年も支え続けてきた者だけの、確かな誇りがあった。
黒川銀。粗野で、遠慮のない物言い。だが、実力主義を貫くその姿勢は決して、いい加減なものではなかった。あの日、拳をぶつけてきたのも、颯太を、本気で見極めようとした証だったのかもしれない。改革派の旗頭、という肩書きが、思っていたよりしっくりくる人物だった。粗雑に見えて、その実、誰よりも結果を出した者への敬意を持っている――そんな一面も垣間見えた気がした。
そして、天海なずな。三人の中で、最も掴みどころのない存在だった。冷静で、揺るがない判断力。それでいて、あの日、垣間見せた、柔らかな一面。厳しさと優しさが、矛盾なく同居している――そんな人物だった。財前と黒川、二人が彼女を"姉御"と呼ぶ理由も、今なら少し分かる気がした。
新幹線を降りる直前、颯太は思い立って、天海の執務室へと立ち寄った。ノックをすると、静かな声で、返事があった。
「――颯太くん。お忘れ物ですか」
「いえ、少し挨拶をと思って」
天海は書類から顔を上げ、僅かに目を細めた。
「律儀ですね」
「一週間、お世話になりました」
天海はしばらく颯太を見つめていた。それから静かに口を開いた。
「――これは、公には、言えないことですが」
「はい」
「陣内と真弥が、あなたのそばにいる。それだけで、私は少し安心しています」
その一言に、颯太は思わず目を見張った。これまでの、有無を言わせない口調とは、また違う柔らかい響きだった。窓の外、夕暮れの光が彼女の横顔を優しく照らしていた。
「あの二人なら、あなたを見捨てたりしない。それは、私が一番よく知っています」
「――ありがとうございます」
「それと」
天海は少し間を置いてから続けた。
「澪は、元気にしていますか」
その名前が出た瞬間、颯太は僅かに驚いた。
「――澪さんのこと、ご存知なんですか」
「もちろん。あの子も、昔、色々とありましたから」
天海の声に、懐かしむような色が静かに滲んだ。何か、遠い記憶を辿っているような、そんな眼差しだった。窓の外を見つめる、その横顔には、かつて何かを見守っていた者だけが持つ静かな翳りがあった。
「元気にしてます。いつも俺を支えてくれています」
「そうですか。それは、良かった」
天海はそう言うと、初めてはっきりと微笑んだ。厳格な大烏の顔ではない、一人の、優しい先輩としての表情だった。
「今度、あの子にも顔を出すよう、伝えておいてください」
「はい、必ず」
颯太は深く頭を下げると、執務室を後にした。
廊下を歩いていると、不意に後ろから、声がかかった。
「――おう、小僧」
黒川だった。壁に寄りかかり、煙草を咥えている。紫煙が廊下の天井へ、ゆっくりと昇っていく。
「先週は悪かったな。ちいと、やりすぎたわ」
「いえ、大丈夫です」
「まあ、次会う時はもうちょい、骨のあるとこ、見せてくれや。弱いもんいじめに見えてしもたら、また、姉さんに叱られていまうがな」
黒川はそう言うと、悪戯っぽく笑った。その表情には、あの日の激しさとは、また違う、気安さがあった。
だが、次の瞬間、その目つきが僅かに変わった。
「――なあ、小僧」
「――はい」
「ここ数日、風の流れが妙なんや」
黒川の声が僅かに低くなる。
「関東の方角から、時々、変な気配が混じる。まだ確証はないんやけどな」
「変な気配、って」
「分からん。ただ、九尾絡みかもしれん、とだけ、言うとくわ」
その一言に、颯太の背筋が冷たくなった。
「気ぃつけとけよ。お前の血が何を引き寄せるか、まだ誰にも分からへんのやから」
黒川はそう言うと、それ以上多くを語らず、煙草を指先で弾いた。
「まあ、詳しいことは、追って連絡いくやろ。今日のとこは、おつかれさん」
黒川の言葉を背に、颯太は京都駅への道を歩き出した。
一週間前とは、明らかに違う自分が、そこにいた。三人の大烏、それぞれの姿を確かに、胸に刻みながら。
三条の重み、黒川の熱量、そして、天海の懐の深さ――どれ一つとして、簡単に理解できるものではなかった。それでも、この一週間で、彼らの輪郭が少しずつ、颯太の中で確かな形を取り始めていた。
いつか、この三人と対等に肩を並べられる日が来るのだろうか。そんな遠い問いを抱えながら、颯太は夕暮れの京都駅へと歩を進めていった。




