第64話「階級授与」
「では、階級を伝えます」
天海が静かに告げた。会議室の空気が、また、少し引き締まった。
「颯太くん。あなたの位は、黒烏。彼岸の最下位、新人としての階級です」
「――黒烏、ですか」
「実力に見合った位からのスタートです。不満はありますか」
「――ありません」
颯太は素直に頷いた。前例のない存在として、いきなり高い位を与えられるより、この方が、むしろ自然だと思えた。地に足のついた場所から、始めたいという気持ちもあった。
「それと、もう一つ」
三条が静かに口を開いた。
「正式な構成員となる前に、手合わせを行う。これは、昔からの慣例だ」
「手合わせ、というのは」
「決まっとるやろ」
黒川が、椅子から立ち上がりながら、そう言った。にやりと、口の端が上がっている。長机に、無造作に置かれた煙草の箱を、指先で弾く。
「実戦で、どれだけ動けるか見たるわ」
その言葉に、颯太は思わず身構えた。三条と天海は、何も言わず、その様子を見守っていた。まるで、これも、あらかじめ決められた手順の一つであるかのように。
「――黒川さんと、ですか」
「そうや。気抜いたら、死ぬで」
黒川はそう言うと、会議室の隅、開けた空間へと歩き出した。財前が少し眉を寄せる。
「銀、加減はしろよ」
「あほか、加減して分かることなんぞ、あるかい」
黒川の周囲に、風が渦を巻き始める。颯太は慌てて、神鳴を呼び出した。
「――ほな、いこか」
颯太が飛び出した瞬間、風の刃が四方から襲いかかった。防御する間もなく、体が宙に浮く。
「ぐっ……!」
地面に叩きつけられる。起き上がろうとするたび、また、風に薙ぎ払われた。神鳴の雷撃も、風の渦に、あっさりと弾かれてしまう。何をどう仕掛けても、その全てが、圧倒的な力の前に、意味を成さなかった。
「まだまだ、甘いのう!」
黒川の声が愉悦に染まっていく。颯太は何度も倒され、何度も立ち上がった。だが、力の差は、あまりにも歴然としていた。
全身が痺れるように痛む。視界が次第に、白く霞んでいく。それでも、諦めるという選択肢だけは、頭に浮かばなかった。
黒川が、最後の一撃を放とうとした、その瞬間。
風を纏った拳が、颯太に向かって、まっすぐ突き出された。
「――もう、いいだろ」
財前の声が鋭く響いた。次の瞬間、財前が颯太と黒川の間に、割り込んでいた。その拳を、財前が、真正面から、片手で受け止める。
「――ッ、真弥!?」
黒川の拳が財前の掌の中で、軋んだ音を立てた。
「これ以上やるなら、俺も黙ってねぇぞ」
財前の声には、これまで一度も聞いたことのない、明確な怒りがあった。額に、青筋が浮いている。掌が、じわじわと、黒川の拳を握り込んでいく。
「――お、おい、握り潰す気か」
「限度ってもんがあるだろうが」
財前の指が、さらに力を込めていく。黒川の顔に初めて、明確な焦りが浮かんだ。
「……なんや、久々にブチ切れてるやん」
「てめぇも、俺ももうガキじゃねぇんだ」
財前はなおも拳を握り込みながら、続けた。
「これから仲間になる奴を、本気で潰す必要はねえだろが」
「――真弥! そこまで!」
天海の声が、静かに、しかし確かな響きを持って、割り込んだ。財前が、はっと、動きを止める。
「――姉御、すみませんでした」
財前は渋々、黒川の拳を解放した。黒川は、痺れた手を振りながら、忌々しげに舌打ちする。
「あんたら、いつまでガキみたいな喧嘩しとんねん」
天海の声には、二人を、まとめて叱るような、静かな迫力があった。財前と黒川は、揃って、決まり悪そうに、視線を逸らした。
その一言に、颯太は痛みの中、確かな安堵を覚えた。
颯太は財前に支えられながら、ゆっくりと体を起こした。全身が、悲鳴を上げている。それでも、意識は、はっきりとしていた。
「――ありがとうございます」
「礼はいい。それより、痛むところは」
「全部です、正直」
その答えに、財前は僅かに笑った。硬く強張っていた空気が、少しだけ緩む。周囲の職員たちも、いつしか、この一幕を、興味深そうに見守っていたようだった。
天海が改めて、話を続けた。
「これから一週間、組織規範についての座学を受けてもらいます。今後、大学との両立は問題ありません」
「――一週間、ですか」
「彼岸の一員として、最低限知っておくべきことを、詰め込みます。それが終われば、正式に、任務に加わってもらいます」
颯太はその言葉の重みを、静かに受け止めた。これまで、感覚と経験だけで動いてきた自分が、これから、体系的な知識も、身につけていくことになる。
天海はそこで、ふと、颯太の体をじっと見つめた。
「――怪我、大丈夫ですか」
その声は、先ほどまでの、有無を言わせない響きとは、まるで違う、柔らかいものだった。
「あ、大丈夫です。多分」
「多分、じゃ困ります。この下の階に、医務室があります。今日は、必ず、寄っていってください」
「――そこまで、しなくても」
「いいえ。私の判断で、この試験を許可しました。だから、責任も、私にあります」
天海はそう言うと、僅かに目を伏せた。
「――ごめんなさいね。銀は、本当に、加減を知らない子で」
その一言に、颯太は思わず目を丸くした。これまでの、鋭く、揺るがない天海とは、また違う、素の一面が、そこには、確かにあった。
「それと」
天海は一枚の紙を、颯太の前に静かに置いた。紙には、几帳面な文字で、いくつかの数字が並んでいた。
「これが、あなたの、当面の給与条件です」
颯太はそこに記された数字を見て、思わず息を止めた。
「――え」
「新人、黒烏としての、基本給です。危険手当は、別途」
そこに記された桁を、颯太は何度も確認し直した。目を擦って、もう一度、見直したくなるほどの数字だった。
「多すぎませんか、これ」
「命を懸ける仕事です。それに見合った対価を払うのは、当然のことです」
天海の声には迷いがなかった。財前と陣内が、颯太の反応を見て、僅かに笑っている。この驚きも、通過儀礼の一つなのだろう。
颯太は静かに、その紙を見つめた。美咲を救うための道、そして、彼岸という組織の一員としての生活――全てが、今、確かな形を持って、始まろうとしていた。全身の痛みは、まだ残っている。それでも、不思議と、心は落ち着いていた。




