第61話「大烏」
京都駅、新幹線のホームに降り立つと、湿った空気が頬を撫でた。東京とは、どこか匂いが違う。木と土と、古い石畳の匂いが混じったような、そんな空気だった。
「――こっちだ」
財前が改札を抜けると、そこに一人の男が待っていた。黒いスーツに身を包んだ、無表情な壮年の男。会釈だけをして、無言のまま歩き出す。
「送迎、ですか」
「ああ。本部付きの職員だ。」
車に乗り込む。窓の外を流れる京都の街並みを、颯太はしばらく無言で眺めていた。観光客で賑わう通りを抜け、やがて車は、鳥居の連なる山の麓へと向かっていく。
「――伏見稲荷、ですか」
「そうだ。本部は稲荷山の中腹にある」
陣内が窓の外を見ながら答えた。
千本鳥居の脇を通り過ぎ、一般の参拝ルートからは外れた、細い道へと車は進んでいく。木々の合間、朱色の鳥居が、途切れることなく続いていた。
やがて、木々に隠れるようにして建つ、古い御堂が見えてきた。表向きは、ただの神職の詰所か何かのように見える。だが、その敷地に足を踏み入れた瞬間、颯太は空気の質感が変わったのを感じた。
「――ここが」
「ああ。彼岸、本部だ」
財前の声には、いつもの豪快さの中に僅かな緊張が混じっていた。
案内の男が、御堂の奥、本尊が祀られているはずの場所へと進んでいく。だが、その手前で立ち止まると、床の一角、一見、継ぎ目の分からない板を、静かに押し込んだ。
鈍い音とともに、床の一部が、音もなく沈み込んでいく。その下から、下へと続く、石造りの階段が現れた。冷たい空気が、地下から吹き上げてくる。
「……地下、ですか」
「表向きの神社を、そのまま隠れ蓑にしてる。よくある手だ」
財前がそう言うと、迷いなく階段を下り始めた。颯太は、その後を追う。一歩ごとに、頭上の光が遠のいていく。
階段を下りきった先、金属製の扉が、行く手を阻んでいた。壁に埋め込まれた小さな機器に、案内の男が、静かに目を近づける。青白い光が、一瞬、男の瞳を走査した。
電子音とともに、扉が、静かに開いていく。
その先に広がっていたのは、想像とはまるで違う光景だった。
石造りの空間だったのは、入り口だけだった。奥へ進むと、そこには、現代的なオフィスフロアが広がっている。デスクが整然と並び、モニターの光が、幾つも点滅していた。白衣や作務衣、あるいはスーツ姿の職員たちが、忙しなく行き来している。その数は、ざっと見ただけでも、二十人は下らなかった。
「……ここ、本当に、神社の地下なんですか」
「スパイ映画みてぇだろ。初めて来たときは笑いそうになるよな」
財前が、可笑しそうに笑った。
すれ違う職員の何人かが、颯太に一瞥をくれる。値踏みするような視線、あるいは、好奇心を隠さない視線。噂は、既に広まっているのだろう。
その一角、応接用らしい広い会議室へと通された。長机が中央に据えられ、その向こう側に三つの椅子が並んでいる。天井には、柔らかい間接照明が埋め込まれ、地下であることを感じさせない、落ち着いた明るさを保っていた。
颯太は財前、陣内と並んで、長机の手前に腰を下ろした。心臓が静かに、だが確かに鼓動を速めていく。
しばらくして、扉が開いた。
最初に入ってきたのは、白髪の老人だった。作務衣のような和装に、深い皺の刻まれた顔。だが、その目だけは、驚くほど鋭かった。
「――三条、守繁だ」
低く、静かな声だった。颯太は反射的に頭を下げた。
「初めまして。常盤颯太です」
「うむ」
三条はそれだけ言うと、静かに椅子へと腰を下ろした。値踏みするような視線が颯太の全身を一瞬で撫でる。
続いて入ってきたのは、女性だった。黒のパンツスーツに、きっちりと結い上げた髪。
その歩き方に、颯太は思わず目を奪われた。無駄のない、まっすぐな足取り。一歩ごとに、空気そのものが引き締まっていくような、そんな錯覚さえあった。誰かに従うのではなく、この場そのものを、自分の領域として歩いている――そんな歩き方だった。
美しい、という言葉だけでは足りない。それ以上に、鋭かった。
「天海なずなです。よろしく」
声は静かだったが、その響きには有無を言わせない芯があった。颯太は思わず背筋を伸ばした。
二人が席についても、最後の一人は、まだ現れなかった。
しばらくして、乱暴に扉が開いた。
「――辛気臭ぇ面しとんな、お前ら」
現れたのは、若く、鋭い目つきの男だった。関西の砕けた口調、着崩したジャケット。腕には、隠す気もない刺青が覗いている。
「黒川。時間くらい守れ」
三条が低く、たしなめる。だが、黒川と呼ばれた男は、意にも介さない様子で、財前の方に、まっすぐ視線を向けた。
「――おう、真弥。久しぶりやな」
「……銀」
財前の声が露骨に低くなった。
「相変わらず、クソヤクザみたいなアホ面しとんのう」
「てめえこそ、相変わらずのチンピラぶりだな、ボケ」
二人の間に一瞬で火花が散った。
「誰がチンピラやねん! こちとら、大烏やぞ!」
「大烏面したチンピラだろうが」
「あぁ!?」
黒川が机に手をついて身を乗り出す。財前も負けじと立ち上がりかける。
部屋の空気が一気に張り詰めた。颯太は思わず身を縮める。陣内だけが、いつもの気だるげな顔で、その様子を眺めていた。
「――真弥・銀! いい加減にしなさい」
その一言が、凍りついたように鋭かった。
天海だった。声を荒げたわけではない。それなのに、部屋の温度そのものが、一瞬で下がったような感覚があった。
黒川と財前が同時に口を噤む。
「客人の前です。恥を知りなさい」
天海の視線が二人を、順に射抜く。黒川は舌打ちしながら、渋々椅子に腰を下ろした。財前も、決まり悪そうに、座り直す。
「――姉御、すんません」
「悪かったよ、姉さん」
二人の声が揃って小さくなった。まるで、叱られた子供のようだった。
颯太は、その光景に思わず、僅かに肩の力が抜けるのを感じた。緊張していた空気が、少しだけ、和らいでいく。
天海が改めて颯太の方へ、視線を向けた。
「――お待たせしました。改めて、始めましょうか」
その声には、先ほどまでの鋭さとは違う、静かな落ち着きが戻っていた。だが、颯太は、その奥に、まだ計り知れない何かが潜んでいるのを、確かに感じ取っていた。
三人の大烏。それぞれ、まるで違う気配を纏った存在。
これから始まる対話が、自分の運命を、どう左右するのか。颯太は静かに、拳を握りしめた。




