第57話「廻る因果」
住職は静かに目を閉じたまま語り始めた。
「千三百年以上前、この山には既に一体の強大な妖狐が棲みついていました。齢を重ねるごとに力を増し尾を増やし――やがて"九尾"と呼ばれるまでに至った存在です」
颯太は息を潜め、その言葉に耳を傾けた。障子の外、庭の空気すら住職の語りに合わせて静まり返っているようだった。
「天狗様方は、その脅威に長年頭を悩ませておられました。そこへ力を貸したのが常盤の一族――水と龍の力を操る稀代の術者たちでした」
「常盤が、天狗様と、一緒に、戦ったんですか」
「戦った、というより……鎮めた、が正しいでしょう。常盤の力は荒々しいものを制する力を持つ。九尾の狂気を鎮め、封じ込めるための要となったのです」
颯太は水鏡の刃に目を落とした。この刀の力も遠い祖先たちが積み重ねてきた、あの技術の延長線上にあるのだろうかと、ふと思った。
住職はそこで一度、言葉を切った。庭の桜が静かに揺れている。
「その結果生まれたのが殺生石――九尾を、その地に縛り付けるための封印です。常盤と天狗様、両者の力が合わさって初めて成し得た大業でした」
「それが、なんで、常盤の没落に、繋がるんですか」
颯太の問いに、住職は深く息を吐いた。その吐息には長年、この重い歴史を一人で抱え続けてきた確かな疲労が滲んでいるようだった。
「封印は成功しました。ですが、代償があったのです」
「代償……」
「封印を維持するには人柱が必要だったそうです。世代を跨いでその役目を担い続けなければならなかった」
颯太はその言葉に背筋が冷たくなるのを感じた。椎葉の因習――人柱の話と、どこか重なる響きがあった。二つの家系がそれぞれ違う形で、同じような重荷を背負い続けてきたのだと思い知らされた。
「ある時代、常盤の当主が、その役目に耐えかねました」
住職の声に深い悲しみの色が滲んだ。
「なんとも残酷な話ですが、常盤の当主が愛した女性でなければ人柱として効果がなくなったそうです」
颯太はその当主の顔も名前も知らない。それでも自分と同じ血を引く遠い祖先の苦しみが、胸にじんわりと伝わってくるようだった。
「それで……」
「当主は因習を捨て、愛する人を人柱に捧げることをやめました。それは後に大いなる過ちとして記録されています」
颯太は思わず拳を握りしめた。
「世は飢饉や疫病が蔓延し、大きな地震まで起きました。この時、常盤は大きな信頼を失うことになりました」
「信頼を、失った……なぜ常盤にそんな因縁が」
住職は静かに首を振った。
「九尾の呪いかと。封印されてもその強大な恨みの力は常盤の因子へと関与し、常盤自身が代償を支払うことでしか九尾を抑えることができなくなったとか」
「そんな……」
「当時の彼岸は常盤の一族の"役割"そのものを見直すべきだ、と考える者たちが現れました。常盤だけに、そのような過酷な責務を課すべきではないと」
颯太は静かに頷いた。その気持ちは理解できる気がした。誰かの犠牲の上に平安が成り立つのだとしたら、それをいつまでも当然のこととして受け入れ続けられるだろうか。
「そして常盤の一族の中でも意見が割れました。因習を守り続けるべきだという者。因習そのものを終わらせるべきだという者――その対立が、常盤の結束を内側から静かに蝕んでいったのです」
「それで、一族が、バラバラに……」
「はい。表舞台から姿を消し、名を名乗らなくなった者たちが増えていきました。今、この国に残る常盤の血は、そうして散り散りになった末裔たちです」
颯太は深く息を吐いた。自分自身の中に流れる血が、これほどまでに重い歴史を背負っていたことに改めて圧倒された。澪もまた、この同じ血を引きながら名乗ることのないまま生きてきたのだと思うと、彼女への見方すら少しずつ変わっていくようだった。
「今、殺生石は既に割れています。九尾は再び野に放たれた」
住職の目が静かに颯太を見据えた。その眼差しには、これまでの穏やかさとは違う確かな緊張が宿っていた。
「颯太様。あなたが、この事実を知ったことにも、何か意味があるのかもしれません」
その一言が、颯太の胸に重く響いた。美咲、九尾、そして常盤の因習――全てが静かに一つの線で繋がっていくような、そんな予感があった。まだ、その全貌は見えない。それでも何か大きな因果の流れの中に自分自身が既に組み込まれているのだという実感だけは確かにあった。
庭の桜が、また一つ大きく揺れた。花びらが舞い散る中、颯太は静かに拳を握りしめ続けていた。




