第56話「天狗寺」
朱色の門をくぐると、そこには想像していたよりも遥かに荘厳な空間が広がっていた。
石畳の参道の両脇、大小様々な天狗の像が静かに並んでいる。高い鼻、鋭い目――その一つ一つが、長い年月この場所を守り続けてきた確かな重みを纏っていた。線香の香りが辺り一帯に静かに漂っている。参拝客の数は思っていたより多く、家族連れや外国人観光客の姿も、あちこちに見られた。だが、その賑わいの奥、書院へと続く道だけは不思議なほど静けさに包まれていた。
本堂の朱塗りの柱、金色の装飾――その荘厳さに、颯太は思わず息を呑んだ。桜の木々が本堂の周囲を優しく彩っている。風が吹くたび花びらが瓦屋根の上へと静かに舞い落ちていった。
「――こっちだ」
澪に案内され、本堂の脇、渡り廊下を進んでいく。その先、書院と呼ばれる古い建物へと辿り着いた。
中に入ると、畳の香りと僅かな線香の匂いが颯太を包んだ。床の間には達筆な掛け軸。庭に面した障子が開け放たれ、そこから丁寧に手入れされた枯山水の庭園が見えていた。
しばらく待っていると、静かな足音と共に一人の老人が姿を現した。白い作務衣に、穏やかな、しかし、どこか鋭さを感じさせる目。年齢を感じさせない、しっかりとした足取りだった。
「――ようこそ、おいでくださいました」
住職はそう言うと深く頭を下げた。
「突然の訪問、申し訳ありません」
澪も丁寧に頭を下げる。颯太も慌ててそれに倣った。
「梓さんの、ご紹介とあれば、いつでも歓迎します。それで――」
住職の視線が静かに颯太へと向けられた。値踏みするような、それでいて、どこか懐かしむような、そんな眼差しだった。
「あなたが、常盤の……」
「はい。颯太、と申します」
颯太は深く頭を下げた。緊張で声が僅かに震える。
「常盤の名を持つ方にお会いできるとは思ってもいませんでした」
住職はそう言うと、颯太を座布団へと促した。三人が腰を下ろすと、しばらく静かな沈黙が流れた。
「――失礼ながら、確認させていただいても、よろしいですか」
住職の声が静かに切り出した。
「常盤の血を引く者と名乗る方は、これまでにもいらっしゃいました。ですが、その多くが偽り、あるいは思い込みでした」
その言葉に、颯太は息を呑んだ。
「何か証、を、お持ちですか」
部屋の空気が一段と張り詰めた。颯太は静かに頷いた。影の中に手を伸ばす。冷たい、確かな感触――水鏡の柄がそこにあった。
ゆっくりとそれを引き抜く。月明かりのような淡い光を放つ刃が、書院の薄暗がりの中、静かに姿を現した。柄に刻まれた水紋の模様が微かに脈打っている。
住職の目が大きく見開かれた。
「――これは」
住職はしばらく言葉を失っていた。それから震える手で深く頭を下げる。
「――これは、美しい。……まさか、この目で見る日が来ようとは」
「ご存知、なんですか」
「存じているというより……代々口伝でのみ語り継がれてきたのです。実物を目にした者は、私が知る限り一人もおりません」
住職の声には隠しきれない驚きが滲んでいた。
「颯太様。あなたは、おそらく常盤の血を引くお方なんでしょう」
その一言に、颯太の胸に確かな実感が広がった。ようやく自分自身の出自が疑いようのない事実として認められた瞬間だった。
「それで――」
住職は居住まいを正した。
「今日いらしたのは、我々の古い因縁について、お知りになりたいからですね」
「はい。常盤が、なぜ没落したのか。それを知りたくて」
住職の表情が僅かに曇った。長い深い沈黙が部屋を満たす。庭の方から鳥の声が遠く聞こえてきた。
「――それは、決して軽い話ではありません」
住職は静かにそう切り出した。
「千三百年以上前、この山と常盤の一族、そして天狗様との縁は始まりました。その繋がりは長く固く続いてきました」
「千三百年……」
颯太は思わず、その数字の重みに圧倒された。
「ですが、ある一つの出来事を境に、その関係は大きく姿を変えることになったのです」
住職の目に深い憂いの色が浮かんだ。
「これは九尾――ある強大な存在の封印にまつわる話です」
その一言に、颯太の右目の奥が微かに疼いた。まるで体そのものが、この話の重さを先に感じ取っているかのように。
隣で、澪の肩が僅かに強張るのが颯太にもはっきりと分かった。
「――澪さん?」
「……いや。続けてください」
澪はそう言うと、住職の方へ視線を戻した。だが、その横顔には隠しきれない緊張の色が浮かんでいた。
「梓さんも、ご存知の話でしたか」
「――九尾の名は。ですが、ここまで深く繋がる話だとは知りませんでした」
澪の声には動揺が僅かに滲んでいた。
「実は、あの封印――殺生石は既に割れています」
住職の一言に、颯太は息を呑んだ。
「割れた、って」
「数年前のことです。長い年月封じ込めてきた石に亀裂が入り、そこから九尾が逃れ出た、と言われています」
「それは……」
澪が静かに口を挟んだ。
「彼岸、関東圏の最重要懸念事項です。最優先の捜査対象、と言ってもいい」
颯太は思わず、澪の顔を見つめた。
「澪さんたちも、追ってるんですか」
「追ってる。だが」
澪の表情に珍しく苦々しさが滲んだ。
「あまりにも狡猾すぎる。これまで足取り一つ掴めていない」
その言葉に、書院の空気が一段と重くなった。庭の桜が静かに風に揺れている。
「詳しくは、これからお話しします。だが颯太様。これを聞けば、もう後には戻れません。それでも、よろしいですか」
颯太は迷わず頷いた。




