第55話「常盤の起源」
高尾山口駅を出ると、春の陽気が颯太たちを優しく包んだ。
参道の両脇、桜が既に七分咲きほどに色づいている。花びらが時折、風に乗ってひらひらと舞い落ちていた。地面に降り積もった花びらが淡い絨毯のように参道を彩っている。これまで何度も訪れた場所だったが、いつも修行のために脇道や獣道めいた斜面ばかりを駆け上がってきた。こうして正式な参道をゆっくりと歩くのは初めてだった。
「――こうして、ちゃんと歩くと、印象、違いますね」
「だろうな。お前が知ってるのは修行用の裏道ばかりだ」
澪はそう言うと小さく笑った。参道沿いの新緑の木々が木漏れ日を地面に揺らめかせている。普段の凛とした表情とは少し違う柔らかな横顔だった。
しばらく無言で石段を登り続けた。息を切らしながらも颯太は辺りの景色に目を奪われていた。春の香り、鳥の声、遠くから聞こえる参拝客の話し声――全てが穏やかに混じり合っていた。
澪のフードから、ひょっこりと影行が顔を出した。舞い落ちる花びらを丸い目で夢中になって追いかけている。小さな前脚を宙に向かってぱたぱたと伸ばす仕草が、なんとも愛らしかった。
「――影行、はしゃいでますね」
「花びらが物珍しいんだろ。あいつ普段、あんまり外に出ないからな」
澪はそう言いながらも、どこか微笑ましそうな目で影行を見つめていた。一枚の花びらが影行の鼻先にふわりと落ちる。影行は驚いたように後ずさり、それから不思議そうに、その花びらをじっと見つめた。
その様子に、颯太は思わず頬を緩めた。木漏れ日が参道にまだら模様を描いている。時折涼やかな風が吹き抜け、若葉の匂いを颯太の鼻先へと運んできた。修行の時とは違う、この落ち着いたペースで歩く山道は、不思議なほど心を静かに整えてくれるようだった。
「――颯太。歩きながらでいい。常盤の話、しておく」
澪がふと口を開いた。その声色は、いつもの事務的な報告とは少し違う慎重な響きを持っていた。
「はい」
「この高尾山、そして、これから向かう天狗寺――常盤の一族は元々、ここら一帯の守護を担ってきた家系だ」
「守護、って、どういう」
「天狗信仰の地、そのものを守ってきた、ってことだ。この山の水脈は遠く多摩川にまで繋がってる」
その言葉に、颯太は思わず足を止めた。周囲の木々が、その一言を確かに受け止めるように静かに揺れていた。
「多摩川に、って……凪の」
「そうだ。常盤の血が水と龍に強く結びついてるのも、元々はこの山との縁が始まりだったんだろうな」
颯太は深く息を吸い込んだ。ここまで来て初めて、自分の血筋の輪郭が少しずつ形を持ち始めているのを感じた。多摩川、水鏡、そして今、目の前にあるこの山――全てが一本の線で繋がっていく感覚だった。
「でも、今は、そんな話、聞いたこともなかったです」
「――ああ。常盤は、ある時代を境に没落した」
澪の声に僅かな翳りが差した。
「没落、って」
「詳しい経緯は俺も全部は知らない。だが、それ以来、常盤の血を引く者はその名を表立って名乗らなくなった」
颯太ははっとした。
「――澪さんも、ですか」
「ああ。俺も常盤の分家筋だ。だが、"常盤"を名乗ることは、ほとんどない」
その事実に、颯太は静かな衝撃を受けた。これまで澪自身の出自について深く聞いたことがなかった。彼女が当たり前のように「梓澪」とだけ名乗り続けてきたことにも、こんな理由があったのかと今更ながら気づかされた。
「それが、風習になってるんですか」
「そうだ。何代も続いてきたことだからな。今更理由を問う奴も少ない」
「澪さんは、気にならなかったんですか。自分の本当の名字なのに」
澪は少し間を置いてから答えた。
「――子供の頃は気になったさ。だが、大人になるにつれて慣れていく。名前なんてもんは、そういうもんだ」
その言葉には、諦めとも達観とも取れる複雑な響きがあった。
石段が少しずつ急になっていく。木々の隙間から時折、遠くの町並みが見え隠れした。呼吸が少しずつ上がってくる。それでも颯太の足は止まらなかった。
「なんで、没落したんですか」
「それは天狗寺で住職から直接聞いた方がいい。俺の口から中途半端に話すより正確だ」
「――澪さんでも、知らないことなんですか」
「俺が知ってるのは、あくまで断片だ。核心は代々、住職の家系にだけ伝えられてきたらしい」
その言葉に、颯太は静かに頷いた。焦る気持ちは、まだ残っていた。それでも一歩ずつ確実に、自分自身のルーツに近づいている実感が胸の中に確かに広がっていた。
参道の先、朱色の門が木々の合間から僅かに見え始めていた。
風が吹くたび、桜の花びらが舞い散る。その光景は、あまりにも穏やかで美しかった。これから知ることになる常盤の歴史の重さとは対照的なほどに。まるで、この美しい春の景色そのものが、これから聞かされる重い話への静かな前奏曲のようだった。
「――もうすぐ、着くぞ」
澪の声に、颯太は静かに頷いた。フードの中、影行はいつの間にか満足したように丸くなってうとうとし始めていた。門の向こうに何が待っているのか。まだ想像もつかなかった。それでも、この一歩一歩が自分自身の根っこへと確実に近づいていることだけは、はっきりと感じ取れていた。




