第54話「焦燥の間」
陣内と、あの居酒屋で飲んだ日から一週間が経っていた。
その間、目立った異変はなかった。澪と共に小さな妖の気配を幾度か処理する日々。くだんのような大規模な脅威は幸いにも現れていない。表向きは平穏な時間だった。大学の授業に出て、澪から連絡が来れば駆けつけ、また、いつもの日常に戻る——そんな繰り返しだった。
だが、颯太の中では、ある一つの考えが日を追うごとに、はっきりと輪郭を持ち始めていた。
美咲を救う。その願いを実現する方法は結局一つしかない。
過去へ戻ること。あの夜、あの瞬間へ直接跳ぶこと。それ以外に道はない。凪から力を受け継いだ今も、この結論だけは変わらなかった。
美咲が遺した、あのお守り。満月の夜、今も美咲の夢は見る。だが、その行き先は相変わらず選べない。ただ、あのお守りだけは違うはずだった。意志を持って望んだ場所へ潜っていける——颯太はそう認識していた。
「――澪さん、聞いてもらえますか」
いつもの児童公園、颯太は思い切って切り出した。
「なんだ」
「美咲を救うには、結局、俺自身が過去へ戻るしかないんです。それ以外の方法が見つからなくて」
澪はしばらく黙って颯太を見つめていた。その目には驚きよりも静かな覚悟の色が浮かんでいた。
「――お前も、そこに辿り着いたか」
「澪さんも、同じことを考えてたんですか」
「当然だ。それ以外に美咲を救う手段があるわけじゃない」
澪の声には驚きより確認するような静かな響きがあった。まるでこの結論が来ることを随分前から予期していたかのように。
「それなら」
「焦るな」
澪は颯太の言葉を遮った。
「今、陣内さんは京都に行ってる。彼岸本部だ」
「――京都、って」
「お前の処遇を今、本部で詰めてる最中だ。下手にこっちが動けば余計に話をこじらせる」
「彼岸の本部って、京都にあるんですか」
「本部機能の一部が、な。歴史的な経緯もある。詳しくは俺も全部は知らない」
颯太は拳を強く握りしめた。分かっている。だが、それでもじりじりとした焦りが胸の奥で渦を巻いていた。指先が僅かに震えている。
「――どれくらい、かかるんですか」
「分からない。だが、待つしかない」
澪の声は静かだが有無を言わせない、確かな重みを持っていた。その口調の奥に彼女自身も、この状況に多少の焦れを感じているらしいことが僅かに伝わってきた。
「颯太。お前が今焦って、彼岸を、あるいは俺を困らせるようなことをすれば、全部台無しになる。分かるか」
その言葉に、颯太は深く息を吐いた。澪の言う通りだった。自分一人の焦りで、これまで積み上げてきた信頼関係を崩すことだけは避けたかった。
「――分かってます。すみません」
「謝ることじゃない。ただ、今は耐える時だ」
颯太は静かに頷いた。焦りは消えない。それでも澪の言葉には従うべき理由が確かにあった。澪自身も、この一週間、颯太の焦りを静かに見守り続けてくれていたのだろう。
澪はしばらく颯太の様子をじっと見つめていた。それから、ふと何かを思いついたように口を開く。膝の上、影行がいつの間にか顔を出していた。
「――颯太、明日、時間あるか」
「はい、大丈夫ですけど」
「高尾山、天狗寺に行かないか」
颯太は少し意外そうな顔をした。
「あそこに、何が」
「常盤の歴史をちゃんと教えとく必要がある。お前は、まだ自分の血筋のこと、ほとんど知らないだろ」
その言葉に、颯太ははっとした。確かに常盤という名前を陣内の口から初めて聞かされたばかりだった。自分自身の出自について、まだ何も知らない。凪や水鏡、そして龍との結び——それらの断片は既に耳にしていた。だが、それがどういう歴史の中で育まれてきたものなのか、颯太は、まだ何も分かっていなかった。
「――行きます」
「気晴らしにもなる。焦ってる時ほど余計なことを考えすぎるもんだ」
澪の声には颯太を気遣う確かな優しさが滲んでいた。この一週間、颯太がどれだけ内心で焦りを募らせていたか——澪はそれをちゃんと見抜いていたのだろう。
「ありがとうございます」
「礼はいい。明日、いつもの場所で」
澪はそう言うと静かに背を向けた。夕暮れの光がその背中を橙色に染めていた。
颯太はその背中を見送りながら深く息を吸い込んだ。焦る気持ちは、まだ消えない。それでも今は待つしかないのだと、自分自身に何度も言い聞かせた。
自宅に戻り、颯太は引き出しの奥から、あのお守りを取り出した。手のひらに乗せると、いつもの微かな温もりが指先に伝わってくる。
今、これを使えば。そう思う瞬間が何度も頭を過ぎった。だが、澪の言葉がその度、颯太を押し留めた。
颯太はしばらくお守りをじっと見つめていた。それから静かに、それを机の上に置いた。今は、まだ使う時じゃない。自分自身にそう言い聞かせるように。
部屋の隅、影の中で眠る水鏡の存在も静かに感じ取った。この一週間、静かに傍らにあり続けた、この刀。いつか、これを使って本当に過去へ跳ぶ日が来るのだろうか。まだその方法すら分かっていない。それでも確かな予感だけが、胸の奥に静かに根を張っていた。
明日、天狗寺で何を知ることになるのか。まだ想像もつかなかった。それでも自分自身のルーツに少しでも近づけることに、颯太は確かな期待を抱いていた。




