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因果のカレント  作者: BNG
因果の深淵

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第53話「語らい」

 空になったジョッキが、もう三杯目になっていた。


陣内は酔いが回った様子も見せず、いつもの飄々とした調子でグラスを傾け続けている。店内はいつの間にか客の入れ替わりが進み、新しい喧騒に包まれていた。


「――なあ、颯太」


「はい」


「お前、これから先、何かあったら、ちゃんと誰かに言えよ」


その一言に、颯太は少し驚いたように顔を上げた。


「――急に、なんですか」


「いやな、絶望するかもしれんがな」


陣内は少し遠くを見るような目をした。グラスを持つ手が僅かに止まる。


「大人になればなるほど、若い頃より悩みなんてもんは増えていく一方だ。ましてや歳をとる分、誰かに相談するのも難しくなる」


「――そういう、ものですか」


「立場ができる。責任も増える。気づいたら全部一人で抱えてる。大人は大変だよな」


その声には実感の込もった確かな重みがあった。


「――陣内さんでも、そうなんですか」


「当たり前だろ。八咫烏だからって悩みがなくなるわけじゃねえよ」


その言葉に、颯太は少し意外そうな表情を見せた。これまで陣内の悩みなど想像したこともなかった。


「だからよ」


陣内は颯太の目をまっすぐ見た。


「若いうちは、しっかり誰かを頼っとけ。それができるのも今のうちだけだ」


颯太はその言葉を静かに胸の奥に刻んだ。澪、財前、もも、そして、この陣内――頼れる人は既に少なくないことに、改めて気づかされた。


「――ありがとうございます」


「礼はいい。それより」


陣内は少し意地悪そうな笑みを浮かべた。


「お前、美咲、って子に、そんなに一途なのか」


颯太は思わず箸を止めた。


「――なんで、その名前」


「澪から聞いてるさ、八咫烏だぞ。お前、意外と一途なんだな」


その言葉に、颯太は少し気まずそうに視線を逸らした。澪がそこまで話していたとは思っていなかった。だが、陣内はそんな颯太の様子を見て、ふと笑いを消した。何かを感じ取ったような、そんな表情だった。


「――颯太。お前にとって、美咲って、どういう子なんだ」


颯太はしばらく言葉を探した。何度も頭の中で繰り返してきたはずの想いなのに、いざ言葉にしようとすると、うまく出てこなかった。


「大切、です。それしか、言えないですけど」


「そうか」


陣内は静かに頷いた。その相槌には急かす色も値踏みする色も少しもなかった。それからグラスをじっと見つめる。


「男が女に、どうしようもねぇくらい惚れるってのはな……一生に一度、あるかないかだ」


その声のトーンが、これまでとは明らかに違っていた。


「外見がいいからでもねぇ。性欲でもねぇ。金でもねぇ」


陣内はグラスを一気に呷った。


「ただ……その人じゃなきゃ駄目なんだ」


颯太は息を呑んだ。これまで誰にも、うまく説明できなかった、あの感情の正体を、陣内が代わりに言葉にしてくれた気がした。


「そう、なんです。美咲じゃなきゃ、駄目、なんです」


その一言を口にした瞬間、颯太の胸の奥で何かが静かに震えた。長い間、誰にも打ち明けられずにいた想いを、初めて正直な言葉にできた気がした。


「いいじゃねえか」


陣内は小さく笑った。だが、その笑みにはどこか自嘲めいた色が滲んでいた。


「……男はアホだからな。それに気づく頃には、だいたい手遅れだ」


その一言が、颯太の胸に鈍く突き刺さった。単なる一般論とは思えない、実感の込もった響きだった。まるで自分自身の過去を静かになぞっているかのような。


「――陣内さんも、そうだったんですか。夕花さんの、ことですか」


颯太が思い切って尋ねると、陣内は小さく首を振った。


「――違う。夕花は式だぞ。お前、俺が独身のオジだからって、なんか変な目線でみてないか」


その一言に、颯太は思わず頭を下げた。


「――すみません、変な意味じゃ」


慌てて弁解する声が、我ながら情けなく上ずる。だが、陣内の口元に浮かんだ笑みの奥、ほんの一瞬だけ、何かを覆い隠すような複雑な陰が過ぎった気がした。


「まぁ、昔の話だ」


陣内はそれだけ言った。それ以上語る気配はなかった。ただ静かに店員にお代わりを合図する。その声の奥には、まだ癒えていない何かが確かに燻っている気がした。だが、颯太はそれ以上踏み込まなかった。今は、まだ聞くべき時ではないと直感が静かに告げていた。


店内の喧騒が遠くに聞こえる。二人の間には、しばらく静かな沈黙が流れていた。


颯太はその沈黙を破らなかった。ただ陣内の横顔を静かに見つめていた。飄々とした、いつもの陣内の奥に、これまで見えていなかった何か大きなものが確かに眠っているのだと、今初めて実感した。


窓の外、通り過ぎる電車の音が微かに響いてきた。陣内はその音に耳を澄ませるように、しばらく目を閉じていた。


「――颯太。今日は良い酒だった。彼岸の方はまかせとけ」


陣内はやがてそう言うと、いつもの飄々とした表情に戻った。だが、その目の奥には、まだ消えきらない静かな余韻が残っているようだった。


「こちらこそ、色々、聞かせてもらって、ありがとうございました」


颯太は深く頭を下げた。今日、この短い時間だけで、陣内という人物への理解が格段に深まった気がした。


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