第52話「負け犬」
連れて行かれたのは、中野駅付近の古びた居酒屋だった。
赤提灯が夕暮れの中、ぼんやりと灯っている。暖簾をくぐると煮込み料理の匂いと賑やかな話し声が一気に颯太を包んだ。カウンターには、サラリーマン風の客が数人、肩を並べて生ビールを傾けている。
「――マスター、いつもの」
陣内がカウンターの奥に向かって軽く手を上げた。店主らしき初老の男が無言のまま小さく頷く。長年の常連なのだろう、その気安いやり取りだけで伝わってくるものがあった。
案内されたのは奥の小上がりの席だった。座布団に腰を下ろすと、陣内はネクタイをさらに緩めた。壁に貼られた手書きのメニューが店の年季を物語っていた。
「――で、何にする」
「あ、俺、まだ未成年……じゃなくて、二十歳になったばかりなんで、あんまりお酒は」
「青年、俺が財前じゃなくてよかったなぁ。ソフドリでいい。俺一人が勝手に飲む」
「財前さんだと……どうなるんですか……」
「まぁ、あいつは後輩にはYES、か、はい、しか言わせないからなぁ」
颯太は思わず噴き出した。高尾山での、あの豪快な修行の記憶が鮮明に蘇ってくる。
「――なんとなく、想像つきます」
「だろ? "断る"って選択肢が、あいつの辞書にはないんだよ」
「じゃあ、"ソフトドリンクでいい"って言われても、断れないってことですか」
「いや、それはあいつなら、そもそも聞かねえよ。有無を言わさず日本酒、注いでくる。盃交わすのが好きなんだろ」
陣内はそう言うと、くつくつと笑った。その笑い方には財前への確かな親しみが滲んでいた。
「――でも、陣内さんは、ちゃんと聞いてくれるんですね」
「俺はあいつほど押しが強くねえからな。それに」
陣内は少し声を落とした。
「若い連中に無理やり酒飲ませるほど、世話焼きでもねぇよ」
その一言に、颯太はまた小さく笑った。
運ばれてきたのは颯太にはウーロン茶、陣内はキンキンに冷えた見たこともないような特大サイズの生ビールだった。
「――お疲れさん」
重たそうなグラスを軽く掲げる。颯太も慌ててグラスをそれに合わせた。
しばらく二人は無言で料理をつついた。焼き鳥、出汁巻き卵、煮込み――どれも颯太には馴染みのない、けれどどこか懐かしい味だった。
「――なあ、青年」
陣内がビールを傾けながら、ふと口を開いた。
「怖くねぇのか。あの予言」
颯太は箸を止めた。
「怖いです。正直、今でも」
「だろうな」
陣内は静かに頷いた。
「だが、お前は逃げなかった。それだけで、たいしたもんだ」
「逃げる、っていう選択肢があったのかも、分からなくて」
「あるさ、いつでも。それでも、お前は立ち向かうことを選んだ」
陣内の声にはからかいの色が少しもなかった。ただ静かな、確かな評価だけがそこにあった。
「陣内さんは、怖いものって、ないんですか」
颯太が思い切って尋ねると、陣内は少し驚いたように目を見開いた。それから小さく笑う。
「あるさ、腐るほど」
「――そうなんですか」
意外だった。あの高尾山で見せた圧倒的な力を思い出すと、陣内が"怖いもの"を持っているとは想像しにくかった。
「俺は、なんだ、いわゆる負け犬なんだよ。いっぱい間違えて、大切なもんたくさん失って、それでもまだ生きてる。だからもう取り溢さねえように、怖いもんでも何でも目を逸らさずに気張ってるだけさ」
陣内はビールをもう一口呷った。
「夕花のことも、そうだ。俺はあいつと解魂まで辿り着いてる。だが、それでも時々怖くなる」
「――怖い、って」
「いつか、あいつを失うんじゃないかって。解魂したからって永遠が約束されるわけじゃない」
その声には普段の飄々とした態度からは想像もできない、深い不安が滲んでいた。
その言葉に、颯太は思わず押し黙った。財前や、もも からは感じたことのない、陣内特有の静かな翳りがそこにはあった。
「青年、お前は亡くなった彼女を救いたいんだよな」
唐突な問いに、颯太ははっと顔を上げた。
「はい」
「その先に何があるか、考えたことは」
陣内の声が静かに空気を切り替えた。それまでの軽い口調とは明らかに違う響きだった。
「――どういう、意味ですか」
「救えたとして、その後お前はどうするつもりなんだ」
颯太は言葉に詰まった。これまで"救う"という一点にしか意識が向いていなかった。その先のことなど考えたこともなかった。
「分からない、です」
「それでいい。今は、な」
陣内はそう言うと静かに微笑んだ。
「だが、いつか考える時が来る。願いが叶った後、自分は何を望むのか。それを忘れるな」
その言葉は颯太の胸の奥に、静かに深く沈んでいった。
「――陣内さんは、何か、後悔してること、あるんですか」
颯太がそう尋ねると、陣内はしばらく黙り込んだ。それからグラスをゆっくりと置く。
「たくさんある。だが、一番は――夕花を彼岸に巻き込んだことだ」
「巻き込んだ、って」
「あいつは本来、俺の式になる必要なんてなかった。それでも俺が勝手に繋がりを求めた」
陣内の目に深い複雑な色が浮かんだ。
「後悔してる。だが、それでもあいつがいなければ今の俺はいない。矛盾してるだろ」
「――いえ」
颯太は静かに首を振った。
「なんとなく、分かる気がします」
陣内は颯太の顔をじっと見つめた。それから小さく笑った。
「青年、いい顔になったな」
「――もも さんにも、同じこと、言われました」
「そうか。なら、間違いねえな」
陣内は豪快に笑うと、またビールを呷った。
店の外、夜の帳がすっかり下りていた。窓の外を行き交う人々の影が、赤提灯の灯りに揺れている。遠くから電車の走行音が微かに響いてきた。
颯太はウーロン茶を一口飲んだ。今日一日の出来事――くだんとの死闘、予言、そして、この静かな時間――全てが、まだ頭の中で整理しきれずにいた。それでも確かに一つだけ分かることがあった。
自分は独りじゃない。
その実感だけが今、颯太の胸を静かに温めていた。窓の外の喧騒とは対照的に、この小さな座敷だけが穏やかな時間に包まれているようだった。




