第50話「彼岸と伊勢」
翌朝、スマートフォンが鳴った。
澪からの着信だった。まだ体のあちこちに昨夜の疲労が残っている。
「――もしもし」
「颯太、今日、時間あるか」
「はい、大丈夫ですけど……何か」
「陣内さんが神社に行くって言ってる。お前も同行しろ」
その一言に、颯太の背筋が僅かに強張った。まだ昨夜のことを頭の中で整理しきれていなかった。
「陣内さんが、どうして」
「昨夜の件、彼岸の本部が察知した。地震とか、あの規模の気配の乱れは、さすがに隠しきれない」
澪の声には隠しきれない緊張があった。
「陣内さんが来る、っていうことは」
「調査、って名目だ。だが実際には颯太、お前のことを確かめに来るんだろうな」
颯太は息を呑んだ。昨夜のことを思い返すと、まだ体の奥に鈍い痛みが残っている。くだんとの戦い、そして、あの予言――全てが、まだ消化しきれていなかった。
「大丈夫、なんですか」
「分からない。ただ陣内さんなら無茶なことはしないはずだ。あの人はああ見えて思慮深い人だ」
その言葉に僅かな安堵を覚えた。財前ほど豪快でもなく、もも ほど親しみやすくもない。だが陣内には独特の冷静な公平さがあった。
「陣内さんって、彼岸の中でも、どういう立場の人なんですか」
「調停役、って言えばいいのかな。感情に流されず状況を見極める。本部からの覚えも悪くない」
「――そういう人が来る、ってことは」
「悪い話じゃない。少なくとも、いきなり処分される、なんてことにはならないはずだ」
澪の声に確かな信頼の色が滲んでいた。
「何時に、行けばいいですか」
「昼過ぎだ。俺も同行する」
「――ありがとうございます」
「礼はいい。遅れるな」
その素っ気ない言い方に、思わず小さく笑った。だが笑いの裏には確かな緊張が、まだ残っていた。澪がこうして当たり前のように傍にいてくれることの心強さを、改めて実感した。
昼過ぎ、神社の境内には既に陣内の姿があった。
少しよれた、だらしない着こなしのスーツ。ネクタイも僅かに緩んでいる。あの独特の気だるげな雰囲気は今日は僅かに鋭さを帯びていた。腕を組み、本殿の損壊をじっと見つめている。
三月の陽射しが境内に柔らかく降り注いでいた。だが、その暖かさとは裏腹に陣内の周囲だけ空気が張り詰めているようだった。
「――よう、青年」
「お久しぶりです」
久しぶりに会う陣内は、あの高尾山での修行の日々を颯太に静かに思い出させた。凍てつく吹雪の中、氷雪を操る、あの厳しい稽古の記憶。
陣内は本殿の方角に視線を向けた。損壊した床、焦げた痕跡が、まだ生々しく残っている。
「派手にやったな」
陣内はそう言うと、損壊した床を指先で軽くなぞった。焦げた木材の感触を確かめるように。
「すみません……無我夢中で」
「責めてねえよ。むしろ」
陣内は颯太の方をじっと見た。その目には、これまで見たことのない真剣な色があった。まるで颯太という存在を初めて正面から値踏みしているかのような。
「一人でくだんを倒したって聞いた時、正直、耳を疑った」
颯太は何も言えなかった。
「例の柱神から力を貰ったんだってな。それもイレギュラー過ぎて軽く引くぜ」
その一言に、颯太の心臓が大きく跳ねた。澪から既に伝わっているのだろう。
隠す必要はない、と分かっていても緊張は拭えなかった。
「――はい」
「まぁ、なんだ、大したもんだ。生きてんならどうにかなる」
陣内の声には皮肉も警戒も感じられなかった。ただ純粋な驚きと、僅かな敬意だけがそこにあった。
「宮司はいるか。話、聞きたい」
その時、本殿の奥から玄一が姿を現した。二人の視線が静かに交差する。玄一の顔には警戒とも困惑ともつかない複雑な色が浮かんでいた。
「――彼岸の方、ですね」
「陣内と言います。突然、失礼します」
陣内は深く頭を下げた。その丁寧な所作には、これまで颯太が見てきた彼の気だるげな一面とは、また違うきちんとした礼節があった。
「今日、伺ったのは、二つ理由があります」
陣内は静かに切り出した。
「一つは常盤颯太の件。もう一つは……この顛末、神社本庁、伊勢がどう見ているかです」
「伊勢、と言いますと」
「宮司さん、ここまできて誤魔化しはなしだ。彼岸と伊勢は互いの存在を知っている。でしょ? 今回は表の神社――伊勢の管轄で事が起きた。伊勢がこの一件をどう見解しているか把握しないことには、彼岸としても下手に動けない」
颯太は初めてはっきりと理解した。彼岸と神社本庁は決して無関係な組織ではない。だが今回のように、表の領域で起きた出来事に関しては双方の認識を慎重に擦り合わせる必要があるのだと。
「筋が通らなくなる、ってことですか」
「そうですね。小物ならともかく、あのくだんでしょ。伊勢の見解と彼岸の対応が食い違えば、後々面倒なことになる」
陣内は颯太の方をちらりと見た。
「それに、彼は彼岸の構成員じゃない。こちらの判断で勝手に立ち回ることもできない」
その一言に、颯太の胸に鈍い痛みが走った。くだんを倒したという事実だけでは、まだこの世界の中で颯太自身の"居場所"が確立されていないのだと、改めて突きつけられた気がした。
「――厄介な話ですね」
玄一が静かにそう呟いた。その声には疲労と僅かな諦観が滲んでいた。
二人の間に何か言葉にならない緊張が静かに流れていた。長い歴史の中で幾度となく交差してきたであろう、表と裏、二つの組織。それが今この場所で、また一つ新しい形を持とうとしていた。
颯太はその様子を静かに見守った。これから何が語られるのか。彼岸という組織が颯太の存在をどう扱うのか。まだ、何も分からなかった。
ただ一つだけ確かなことがあった。もう後戻りはできない。颯太の存在は既に彼岸という大きな組織の視界に入ってしまったのだ。




