第49話「必中の予言」
日月の形を成した水の刃が夜気を切り裂き、くだんへと迫った。まるで月そのものが刃となって降り注いでいくかのような光景だった。
くだんは咄嗟に腕を盾のように掲げた。だが、その動きは、もう間に合わない。
水月がくだんの首を正確に捉えた。
これまでのどの一撃とも違っていた。斬れないはずだった、あの異様な抵抗感が今は、まるで嘘のように消えている。刃は抵抗もなく、その首を切り裂いていった。まるで水そのものが対象の存在を認識し、その輪郭に沿って正確に切り込んでいくかのようだった。
くだんの巨体が大きく揺らいだ。切断された首が鈍い音を立てて地面に転がり落ちる。切断面から、これまでとは違う黒い靄のようなものが噴き出した。異臭が一瞬、辺りに立ち込めた。
「――終わった、のか」
颯太は息を荒く吐きながら、その光景を見つめていた。
だが、転がった首から赤い目の光が、まだ消えていなかった。最後の力を振り絞るように、その目が颯太を捉えた。
「――お前」
その声は、これまでよりも遥かにはっきりと、人間らしい響きを帯びていた。
「常盤の者か……」
「……ああ」
颯太は警戒を緩めなかった。長年地下に封じられてきた妖だ。最後の抵抗として何か仕掛けてくる可能性も捨てきれない。だが、その目に敵意はなかった。ただ何かを伝えようとする切実な光だけが、そこにあった。
「聞け。これが……最後だ」
くだんの声が震えた。まるで残された力の全てを絞り出すように。
「お前は、いずれ……」
颯太の心臓が大きく跳ねた。予言――伝承通りなら、この妖は死の間際に必ず当たる予言を口にする。全身の血が一瞬で冷えていくような感覚があった。
「堕ちる……そして最悪を選択する……」
その一言だけを、くだんは確かに告げた。
「――え」
颯太は思わず声を漏らした。「最悪を選択する、って、どういう」
だが、それ以上続く言葉はなかった。くだんの赤い目から既に光が失われ始めていた。
地面に転がった首がゆっくりと崩れ落ちていく。黒い靄が夜気に溶けるように拡散し、やがて完全に消え去った。後には、ただ静寂と焦げたような独特の匂いだけが残された。
境内に静寂が戻った。
颯太はしばらくその場に立ち尽くしていた。水鏡を握る手が小刻みに震えている。戦いの熱は、まだ体の奥に燻り続けていた。だが、それ以上に今耳にした言葉が頭の中を支配していた。
――堕ちる。そして、最悪を選択する。
ただ"堕ちる"というだけなら、まだ漠然とした恐怖で済んだかもしれない。だが、"選択する"という言葉が颯太の意志そのものを名指ししていた。何かを自分で選んでしまう。それも最悪の選択を。
その言葉の意味を考えようとするたび、思考が鈍く痺れていくようだった。凪から聞いた"入れ替わり"のことなのか。それとも美咲を救うという選択、その先にある何かなのか。
「――颯太くん!」
玄一の声が境内の奥から聞こえた。颯太ははっと我に返った。
振り返ると、玄一が覚束ない足取りで駆け寄ってくる。その顔には安堵と驚きが入り混じっていた。着物の裾が乱れているのも構わない様子だった。
「勝った、のか……本当に」
「はい……多分」
颯太は水鏡を静かに鞘に納めた。まだ心臓が激しく脈打っている。手のひらに、まだあの水の感触の余韻が残っていた。
「怪我は」
「大丈夫です。少し疲れただけで」
実際には腕には小さな切り傷が幾つも刻まれていた。だが、それを口にする気力は、もう残っていなかった。
玄一は颯太の全身を確かめるように見つめた。それから深く息を吐く。
「――よく、やった」
その一言に、張り詰めていた緊張が少しずつ緩んでいく。玄一の掌が颯太の肩をそっと叩いた。その重みには言葉以上の労いが込められていた。だが、颯太の心の中には、まだあの予言の一言が重く残り続けていた。
「玄一さん」
「なんだい」
「くだんが、死ぬ前に何か言ったんです」
玄一の表情が僅かに強張った。
「くだんの予言、だな」
「はい。"堕ちる。そして、最悪を選択する"って」
玄一の顔から一瞬で血の気が引いた。これまでのどの反応よりも明確な動揺だった。
「――最悪を、選択する……」
玄一はその言葉を繰り返し噛み締めるように呟いた。夜風が境内の木々を静かに揺らしていた。その沈黙は、これまでのどの沈黙よりも重く感じられた。
「――くだんの予言は必ず当たる。その厄災を止める為に椎葉は封印してきたんだ」
その言葉に、颯太の背筋に冷たいものが走った。
「でも、"選択する"、ってどういう意味なのか分からなくて」
「今は、分からなくていい」
玄一の声には静かな、しかし確かな響きがあった。夜風が境内の焦げた匂いを少しずつ運び去っていく。
「予言というのは、時に受け取り方一つで意味を変える。今恐れるより、いずれその意味を自分自身の手で見極める日が来る」
玄一の言葉には、長年この場所で数々の因習と向き合ってきた者だけが持つ静かな重みがあった。
颯太はその言葉を静かに胸の奥に刻んだ。まだ恐怖は完全には消えていない。それでも玄一の言葉が僅かな支えになっているのを確かに感じた。
夜空に浮かぶ月が、崩れ落ちた本殿の残骸を静かに照らしていた。




