第48話「その名は」
水鏡の刃がくだんの体に深く突き刺さった。
だが――。
手応えがなかった。
刃は確かにくだんの肉を貫いている。それなのに切り裂けない。まるで分厚いゴムを刃先で押しているような、そんな異様な抵抗感だけが掌に返ってくる。
「――どうして」
颯太は思わず後ずさった。くだんの傷口から赤黒い血が滲み出す。だが、それだけだった。斬撃としての威力は、まるで届いていない。焦りがじわじわと胸の奥を侵食していく。
もう一度と、颯太は刃を突き出した。狙いを変え、角度を変え、何度も何度も。だが、結果は同じだった。斬っても刺しても、この化け物には傷という傷が意味を成さない。
くだんが咆哮を上げ、太い腕を振り上げた。颯太は辛うじて飛び退る。爪が鼻先を掠めるように通り過ぎた。地面に転がりながら、颯太は荒く息を吐いた。
立ち上がる足に力が入らない。何度も繰り返してきた斬撃の反動で腕全体が痺れていた。汗が止めどなく顔を伝っている。視界の端がじわりと暗くなり始めていた。
絶望がじわりと胸の奥に広がった。神鳴の攻撃も水鏡の一撃も、この存在には通用しない。もう打つ手がないのかもしれない。息が切れ切れになっていた。全身が鉛のように重い。
膝が崩れ落ちそうになる。それでも颯太は水鏡の柄を必死に握りしめ続けた。ここで倒れたら、それで終わりだ。分かっていても体は限界を訴え続けていた。
その時だった。
「――颯太」
声が聞こえた。
颯太は大きく目を見開いた。今まで一度も聞いたことのない声。それなのに、なぜかはっきりと分かった。
「――神鳴、なのか」
「届いたか」
その声は確かに神鳴のものだった。低く落ち着いた、それでいて力強い響き。ずっと傍らで戦い続けてきた、あの狼の本当の声だった。
颯太の胸に熱いものが込み上げてきた。ずっと憧れていた瞬間だった。財前が言っていた、あの"解魂"の境地。自分にもいつか訪れるのだろうかと半ば諦めかけていた、その瞬間が今確かに訪れていた。
だが、感傷に浸る間もなく神鳴の声が続いた。
「水には決まった形がない。だからこそ、お前の想像した形で動く」
その言葉が颯太の中でじわりと染み渡っていく。これまで当たり前のように振るってきた"刀"という概念自体が、根底から覆される感覚だった。
「――想像、した形」
「刃で切ろうとするな。水そのものをお前の意志で操れ」
「そんなこと、急に言われても……」
「できる。想像しろ。お前は、もうその入り口に立っている」
神鳴の声には確かな信頼が込められていた。
颯太は息を呑んだ。これまで水鏡をただの"刀"として振るおうとしていた。だが、それはこの刀の本質とは違ったのかもしれない。
くだんが再び突進してくる。颯太は咄嗟に水鏡を掲げた。
刃から水が噴き出す。だが、今度はただの水流ではなかった。颯太の意識がその水に強い圧を込める。一点に凝縮させるように。脳の奥、目の熱と、この新しい感覚が初めて一つに繋がった気がした。
「――ッ!」
放たれた水の奔流が槍のような形を成し、くだんの胴体を真っ直ぐに貫いた。水飛沫が辺り一面に飛び散る。月明かりを受けて、その飛沫の一つ一つが宝石のように輝いていた。
これまでとは明らかに違う手応えだった。くだんが初めてはっきりと苦悶の叫びを上げる。貫かれた傷口から大量の血が噴き出した。
「効いて、る……!」
颯太の中に確かな実感が広がった。両腕に、まだ痺れるような余韻が残っている。それでも初めて、この刀の力を本当の意味で引き出せた瞬間だった。
「今の感覚を忘れるな」
神鳴の声が静かに告げた。
「名を知るのと、知らないのとでは、まったく別物だ」
「――名前」
「この技の名は、"水月"――それが、その一撃の本当の名だ」
「水月……」
「名を知れば、その力はお前の中で確かな輪郭を持つ。常盤の理だ」
颯太はその響きを口の中で確かめた。水月。まるで最初から知っていたかのような、不思議な馴染み方だった。
くだんが傷口を再生させながら、再び颯太の方へ向き直る。だが、その動きは明らかに先ほどより鈍かった。息も荒く乱れている。
颯太は水鏡を強く握り直した。手のひらに伝わる刀の重みが、これまでとはまるで違う確かな意味を持ち始めていた。
脳裏にくだんを両断するイメージを鮮明に描く。三日月のような形の水の刃がくだんの首を切り落とす光景。それは単なる願望ではなく、既に実現するはずの未来のように、颯太の中で輪郭を持ち始めていた。
「行けるか」
神鳴の声が静かに問いかけた。
「――ああ」
颯太は短くそう答えた。迷いは、もうなかった。
「――水月」
その名をはっきりと口にした瞬間、水鏡の刃から、これまでとは比較にならない巨大な水の刃が放たれた。




