第45話「美咲のいる場所」
しばらく二人とも何も言わなかった。
境内の風が、木々の枝を揺らす音だけが静かに響いていた。夕暮れの気配が少しずつ空の色を変え始めている。
「――颯太くん」
やがて玄一が静かに口を開いた。
「一つ、見せたいものがあるんだ」
「――なんですか」
「あの子の部屋だ。今もそのままにしてある」
その一言に、颯太の心臓が大きく跳ねた。
「入っても……いいんですか」
「ああ。むしろ見てもらった方がいいと、ずっと思っていた。ただ、きっかけがなくてね」
「なんで、俺に」
「君なら……あの子の言葉を、きちんと受け止めてくれると思ったんだ」
玄一はそう言うと静かに立ち上がった。膝に手をつき、ゆっくりと体を起こすその仕草に、年月の重みが滲んでいた。
本殿の裏手、渡り廊下の先に小さな部屋があった。玄一が古びた鍵を取り出し、扉を開ける。鍵穴に差し込まれた鍵が微かに軋んだ音を立てた。
中に入った瞬間、颯太は思わず息を呑んだ。
制服のジャケットが丁寧にハンガーにかけられている。机の上には参考書と、使いかけのノート。壁には颯太との写真が一枚、飾られていた。
微かに埃と古い紙の匂いが鼻をかすめた。それでも部屋の隅々まで、丁寧に掃除されているのが分かった。玄一が、この時間ずっと大切に守り続けてきた証だった。
時間が止まったままの部屋だった。
「――あの日から、何も触っていない」
玄一の声が背後で静かに響いた。
「片付ける、という選択肢もあった。だが……できなかった」
颯太は部屋の中をゆっくりと見渡した。制服、教科書、そして壁に貼られた何気ない日常の写真たち。どれも颯太がよく知っている、美咲の日常そのものだった。
写真の中の美咲は、いつものあの笑顔だった。花見の写真、高校の友人たちと写った一枚、そして颯太と二人で撮った写真。どれも幸せそうな瞬間ばかりが切り取られている。
「あの子は、こうして……いつも笑ってたね」
玄一の声に深い愛情が滲んでいた。
「だからこそ余計に辛いんだ。この笑顔の裏に何を抱えていたのか。私には、今も分からない」
机の引き出しの奥、颯太の目に留まったのは使い込まれた一冊の手帳だった。表紙はシンプルながら、丁寧に選ばれたものだと分かる上品な作りをしている。
「これは」
「日記だと思う。あの子が、いつも肌身離さず持っていた」
「肌身離さず、って、いつも持ち歩いてたってことですか」
「ああ。学校に行く時も必ず鞄に入れていたよ」
颯太は震える手でその手帳をそっと手に取った。ずしりとした重みが掌に伝わってくる。ただの紙の束とは思えない、確かな存在感だった。
「読んでも……いいですか」
玄一は少し迷うような表情を見せた。だが、やがて静かに頷いた。
「――ああ。君になら」
颯太はその手帳の表紙を開いた。指先が僅かに汗ばんでいる。
最初のページ、見慣れた美咲の字がそこにあった。丸みを帯びた優しい筆跡。何気ない日常の記録が几帳面に綴られている。
颯太は思わず目を閉じた。この文字を、また見られる日が来るとは思っていなかった。喉の奥が締め付けられるように熱くなる。
「――颯太くん、大丈夫かい」
「……すみません。ちょっと、思いだしちゃって……」
颯太は静かに深呼吸をした。逸る気持ちを抑えながらページをゆっくりとめくる。だが、文字を追おうとするたび、視界がじわりと滲んだ。
「――全部は、読めそうにないです。今は」
「無理をしなくていい」
玄一の声は優しかった。
「あの子の言葉と向き合う準備ができた時に、また来ればいい」
「これ借りていっても、いいですか」
「まだ、私の手元に置かせてくれないか」
玄一の声に僅かな躊躇いが混じった。
「もう少しだけ、あの子の想いを、この部屋にいさせてほしいんだ」
その言葉に、颯太は静かに頷いた。
颯太は手帳をそっと机の上に戻した。この中に美咲の知らなかった一面が眠っている。それを知ることが怖くもあり、同時にどうしようもなく求めてもいた。
窓の外、夕暮れの光が部屋の中に静かに差し込んでいた。橙色の光が机の上の手帳を優しく照らしている。
美咲が確かにここにいた。その事実だけが今、颯太の胸を強く締め付けていた。
部屋を出る間際、もう一度だけ振り返った。玄一は、まだ部屋の中央に静かに佇んだまま動かずにいた。その背中に、これまで見たことのない深い喪失の色が滲んでいる気がした。
「――また、来ます」
「ああ。いつでも来なさい」
玄一の声には確かな温かさがあった。颯太は静かに頭を下げると、渡り廊下をゆっくりと後にした。
その時だった。
本殿の方角から、地の底を這うような低い唸り声のようなものが微かに聞こえた気がした。
颯太は思わず足を止めた。右目の奥に鈍い痛みが一瞬走る。
「――今の、何か」
振り返ると、玄一の顔から血の気が引いていた。




