第43話「届いた言葉」
神社の境内は、いつも通り静かだった。
参拝客の姿は、今日もない。本殿の脇、玄一が箒で石畳を掃いていた。
「――やあ、颯太くん」
颯太に気づくと、玄一は驚いたように顔を上げた。
「おはようございます」
玄一は颯太をじっと見つめた。値踏みするような、いつもの視線。だが、その奥に何か違うものが混じっている気がした。
「どうしたんだい、今日は」
「はい。どうしても早く伝えたいことがあって」
「そうか、何かあったのかい」
「凪に会ってきました」
その一言に、玄一の手が箒の柄の上でぴたりと止まった。
「――なんだって」
声が僅かに上ずっていた。これまで見たことのない、明確な動揺の色が、その顔に浮かんでいる。
「多摩川で直接話しました。色々なことを教えてもらいました」
「本当、なのか」
「はい」
玄一はしばらく言葉を失っていた。まるで信じられないものを、目の当たりにしたかのような表情だった。
「颯太くん。君は、自分が何を成したか分かっているのか」
「――どういう、意味ですか」
「柱神と対峙して、生きて帰ってきた人間の話を、私は聞いたことがない。それは常識で測れることじゃない。奇跡、と言っていい」
玄一の声には隠しきれない重みがあった。長年この道を歩んできた者だからこそ分かる、その異常さが言葉の端々に滲んでいる。
「そんなに、危険なことだったんですか」
「危険なんて言葉じゃ足りないくらいだ。歴史上、直接対峙して生還した記録など、伝説上の伝承にある程度だ」
その事実に、颯太は今更ながら背筋が冷たくなるのを感じた。
「俺は、ただ無我夢中で」
「そうか。君は君のまま今、ここにいる。本当によかった」
「凪と対峙したとき、堕とされそうになったんです。澪さんの言葉、そして玄一さんの言葉が聞こえて」
その時のことを思い出すと、今でも背筋に冷たいものが走る。あと少しでも遅ければ自分がどうなっていたか、想像するだけで恐ろしかった。
玄一の目が僅かに見開かれた。
「――私の、言葉?」
「多摩川で何を見ようとも、颯太くんが颯太くんであることを忘れないことだ、って。あの言葉が頭の中にはっきりと聞こえたんです。それで我に返れました」
玄一はしばらく何も言わなかった。ただ颯太の顔をじっと見つめ続けていた。その目に、これまで見たことのない深い感慨が浮かんでいた。
「――そうか。あの言葉が届いていたのか」
声が僅かに震えていた。まるで長年、意味があったのかどうかも分からずにいた言葉が、今初めて確かな形を持ったかのような、そんな震えだった。
「私が伝えられることなど、大したことじゃないと正直思っていた。だが」
玄一はそこで言葉を切った。何かを噛み締めるような、そんな間だった。
「君を繋ぎ止める力になれていたなら――それだけで十分だ」
颯太は深く頭を下げた。
「今日は、その報告に来ました」
「ああ。よく伝えてくれた」
玄一は静かに頷いた。それから少し、遠くを見るような目をした。
「――颯太くん。少し時間はあるか」
「はい。大丈夫です」
「なら、上がっていきなさい。そろそろ君に話しておくべきことがある気がしてな」
その声には、これまでとは違う静かな決意のようなものが滲んでいた。
「椎葉家のこと、ですか」
「ああ。私自身のことも含めてな」
その一言に、颯太は思わず姿勢を正した。玄一が自分のことを語ろうとするのは、これまで一度もなかった。これまでの、どこか達観したような態度からは想像もつかないことだった。
「私は、これまで多くを語らずにきた。それが正しいことだと信じていた」
「――でも、今は」
「今は違う気がしている。君が多摩川まで行けたのなら――私も、いつまでも隠しているわけにはいかない」
玄一は箒を傍らの壁に立てかけると、本殿の方へ静かに足を向けた。
「こっちへ。座って話そう」
颯太は頷いた。何を話されるのか、まだ想像もつかない。だが、玄一が初めて自分から何かを開こうとしていることだけは確かに伝わってきた。
二人は本殿の階段に並んで腰を下ろした。石畳の冷たさが、まだ朝の空気を残していた。
「――どこから、話したものかな」
玄一はそう呟くと、しばらく目を閉じた。長い沈黙だった。それでも颯太は急かさなかった。この沈黙自体が、玄一にとって必要な時間なのだと感じ取っていたから。
やがて、玄一が静かに口を開いた。
その声は、これまで聞いたことのない深く静かな響きを持っていた。まるで長い年月、封じ込めてきた何かを、ようやく解き放とうとしているかのような。
境内の木々が穏やかな風に微かに揺れていた。その音だけが、二人の間の沈黙を優しく満たしていた。




