彼岸外伝 八咫烏 — 第3話「若頭の日常」
橘一家。東京浅草に本部を置く任侠団体。
古びた雑居ビルの一室、応接間には線香の匂いが微かに漂っていた。壁には先代からの額と義理堅そうな熊手が並んで飾られている。
「――カシラ、姐さん、お疲れ様っす!」
若い衆の一人、坊主頭の男が勢いよく頭を下げた。
「おう」
財前は応接間のソファに深く腰掛けていた。表の顔――橘一家若頭としての貫禄のある座り方だった。
「――で、何の用だ」
「実は、例の地上げの件で、揉め事が」
若い衆が緊張した面持ちで事情を説明し始めた。財前は腕を組み、黙って聞いていた。
その傍ら、部屋の隅、鬼燈が静かにお茶を淹れていた。着物姿の彼女は、この場においては若頭付きの女、という体で通っている。若い衆たちは彼女のことを揃って「姐さん」と呼び、明らかに財前以上に頭が上がらない様子だった。
「――なるほどな」
財前が低く唸った。
「相手の組は、どこだ」
「浪河組の、枝の方です」
「あそこか。――話は分かった。俺が、直接、話つけてくる」
「あ、ありがとうございます!」
若い衆が深く頭を下げる。財前は鷹揚に頷いた。
「――そういや、地上げの件、危ない橋は渡ってねえだろうな」
「はい! 姐さんに、口酸っぱく言われてますんで。筋の悪い金は、一円も受け取るな、と」
「よし。それでいい」
若い衆が部屋を出ていく間際、鬼燈に深々と一礼していったのを財前は見逃さなかった。
「――お前、あいつらに、何、教え込んでんだ」
「礼儀と、それから、真弥様の流儀にございます」
「俺の流儀?」
「任侠道から外れる仕事は、一切受けるな、と。真弥様が、いつもそうしておいでだからこそ、若い衆にも、同じことを徹底しております」
「俺だって、それくらい、自分で教えてるだろうが」
「真弥様の教え方は、"殴って分からせる"にございます。私は、言葉で丁寧に繰り返し教えております」
財前はぐっと言葉に詰まった。
「――否定できねぇのが、悔しいな」
「あら、ご自覚がおありでしたか」
鬼燈は袖で口元を隠しながら、くすりと笑った。
若い衆が退室すると、部屋には財前と鬼燈だけが残された。
「――お疲れ様でございます」
鬼燈が湯呑みを財前の前に、そっと置いた。
「おう。悪いな、いつも」
「いいえ。これも、私の役目にございます」
財前は湯呑みを一口、啜った。
「――しかし、面倒だな。彼岸の仕事と、こっちの仕事、両方あると、体がいくつあっても足りねえ」
「真弥様が、両方を大切になさっているからです」
「大切、ねぇ」
財前は僅かに苦笑した。
「こっちは、単なる、隠れ蓑だぞ」
「本当に、そう思っておいでですか」
鬼燈の問いに、財前は一瞬、答えに詰まった。
「――若い奴らが、こうして、俺を頼ってくる。悪い気は、しねえよ」
「存じております。事務所の引き出しに、若い衆一人一人の誕生日と、家族構成を書き留めた手帳があることも」
「――お、お前、見てたのか」
「見えるように、していただけです」
鬼燈は袖で口元を隠しながら、くすりと笑った。その仕草には、いつもの折り目正しさとは少し違う、意地の悪さが滲んでいた。
「――笑うとこか、そこ」
「失礼いたしました。ただ、あまりに、真弥様らしいので」
財前は決まり悪そうに頭を掻いた。
「彼岸だけじゃ、見えねぇもんも、こっちには、ある」
鬼燈は静かに微笑んだ。今度はからかいの色のない、穏やかな笑みだった。
「真弥様らしい、お答えにございます」
「――なんだよ、その顔」
「いいえ、何も」
鬼燈は、また湯呑みにお茶を注ぎ足した。手つきは、あくまで静かで上品だった。だが、財前を見つめる目には確かな労いの色が浮かんでいた。
「――そういや、鬼燈」
「はい」
「神衣まで至った俺たちだけどよ、正直、境目とか、もう分からねえ時あるよな」
「ございますね。真弥様のお心と、私の心の、境が」
「怖くねえのか、それ」
「――いいえ。むしろ、安心にございます」
鬼燈は静かに、そう答えた。その声には迷いが少しもなかった。
「――そういえば、鬼燈」
「はい」
「お前、こっちの世界のこと、嫌いじゃねぇのか」
鬼燈は少し考えるような素振りを見せた。
「嫌いでは、ございません。ただ――」
「ただ?」
「真弥様が、無茶をなさらないか、いつも気を揉んでおります」
財前は豪快に笑った。
「相変わらず、心配性だな、お前は」
「真弥様が、あまりにも、豪胆すぎるだけにございます」
鬼燈は湯呑みを片付けながら、ふと付け加えた。
「――ですが。この浅草の空気、嫌いではございません。真弥様が誰かの"兄貴"でいられる場所、というのは悪くないものです」
財前は意外そうに鬼燈を見た。
「珍しいな、お前がそんなこと言うの」
「私も、たまには」
鬼燈は静かに目を伏せた。その口元には微かな、しかし確かな優しさが浮かんでいた。
応接間に穏やかな時間が流れていく。
線香の匂いと、お茶の香りが静かに混じり合っていた。
橘一家の若頭と、その傍らに寄り添う女――誰も知らない本当の姿を隠したまま、二人の日常は今日も静かに続いていく。




