彼岸外伝 八咫烏 — 第2話「雪花」
夜、陣内正臣の自宅。
生活感、暮らしの最低限すら足りない冷たいコンクリートの部屋。間接照明に煙草の煙が緩やかに漂っていた。壁には絵画一枚、飾られていない。棚には酒瓶がただ無造作に並んでいるだけだった。
陣内はソファーに座り、低いテーブルに足を掛けてグラスを飲み干した。ウイスキーの瓶が既に一本、空になっている。
「――太夫、来てくれないかい」
そう呼びかけると、色のない部屋の隅、花が芽吹くように、ゆっくりと鮮やかな色彩を放つ輪郭を持った。呼びかけてから瞬き一つの間もなかった。まるで最初からそこにいたかのような自然な現れ方だった。
「――あら、正さん。今宵は、うちをお呼びくださいますのやなぁ。ようございましたえ」
夕花太夫が優雅で艶のある仕草で姿を現した。花魁の髪飾りが部屋の薄明かりを受けて、より艶やかに光る。
「仕事じゃねえよ」
「あら」
「一緒に、飲みてえと思ってな」
夕花は僅かに目を細めた。
「――正さん。うちは、お酌係やあらしまへんえ……そのあたりは、ようご存じでありんしょう?」
「知ってるよ。だから、隣にいてくれるだけでいいんだ」
「今は、金欠だ。だから、隣に座ってくれるだけでいい」
陣内はもう一つのグラスをテーブルに置いた。夕花はしばらく、それを見つめていた。
「――しゃあおへんなぁ」
ため息交じりに、そう呟くと、夕花は陣内の向かいに静かに腰を下ろした。着物の裾が微かな音を立てて床に広がる。
「今日は、また、随分と荒れたお顔どすなぁ」
「――分かるか」
「解魂した仲やもの。分からんはずがおへんえ」
「わっちと正さん、もう幾年のお付き合いどす」
夕花は袖で口元を隠しながら、くすくすと笑った。
「解魂して、もう、もう幾年になるのでありんしょうなぁ」
「――さあて。数えたことも、ねえな」
「水臭いこと言わはって。うちは、よう覚えておりんすえ」
「じゃあ、言ってみろよ」
「九年と、三月と、ちょっと」
夕花があっさりと、そう答えた。陣内は思わず言葉を失った。まさか、そこまで正確に覚えているとは想像もしていなかった。
「仕事、大変どしたか」
「――氷雪、使いすぎた。空、一つ、凍らせた」
「またそないな、大掛かりなことを」
夕花の声に僅かな心配の色が滲んだ。
「若い衆に、格の違い、見せなきゃならなかった」
「相変わらず、お人の面倒見が、およろしゅうおすなぁ」
「面倒見じゃねえよ。仕事だ」
「その口ぶりで、随分と、可愛がってはりますやろ」
「うるせえ」
陣内はグラスに酒を注いだ。夕花の分は水だった。彼女は酒を飲まない。
「――太夫」
「なんでありんしょう」
「お前、いつまで、俺に付き合ってくれるんだ」
夕花の動きが一瞬、止まった。
「――変なこと、お聞きになりんすなぁ」
「酔ってるかな」
夕花は静かに微笑んだ。その笑みには、いつもの艶やかさとは違う、どこか深い何かがあった。
「死がふたりを別つまで」
その一言に、陣内の表情から、いつもの気だるさが一瞬、消えた。
間接照明の淡い光が彼の横顔に深い陰影を落としている。眉間に寄った皺だけが、はっきりと、そこに刻まれていた。
「……長生きしねぇとなぁ」
夕花はその言葉に静かに目を伏せた。
薄明かりの中、彼女の白い肌が、まるで雪そのもののように儚く浮かび上がっている。口元には微笑みが残っていたが、その目だけは笑っていなかった。
「そうどすなぁ」
夕花は水の入ったグラスを静かに傾けた。
陣内はしばらく何も言わなかった。ただ酒を一口、飲んだ。喉を通る熱さだけが今、確かに感じられるものだった。
「――お前、たまに、そういうこと言うから、困る」
「あら、正さんは、うちのこと、口説く割に、いざとなると、照れはるんやなぁ」
「うるせえ」
夕花は袖で口元を隠しながら、また、くすくすと笑った。
狭い部屋に静かな時間が流れていく。
「――なあ、太夫」
「なんでありんしょう」
「解魂ってのは、便利だよな。言葉にしなくても、大体分かる」
「――便利、どすか」
夕花の声に微かな翳りが差した。だが、それは一瞬で、いつもの艶やかな笑みに戻る。
「便利、いう言葉だけで、片付けてよろしいんどすか」
その問いかけに、陣内は一瞬、答えに詰まった。
「そうどすなぁ。便利、どすなぁ」
その繰り返しの中に、何か言い切れなかった想いが、そっと隠れている気がした。陣内はそれに気づいていたのか、いないのか、ただ静かにグラスを傾けた。
窓の外、遠くのビルの灯りが瞬いている。この部屋だけが東京という街の喧騒から切り離されているようだった。
夕花はそんな陣内の横顔を、しばらく黙って見つめていた。何かを言おうとして、やめる。そんな仕草を二度、三度と繰り返した。
東京の夜は、こうして誰にも知られないまま更けていった。二人の間にある言葉にならない何かだけを静かに置き去りにして。




