彼岸外伝 八咫烏 — 第1話「朝の八咫烏」
東京都内某所、彼岸・関東エリア支部。
表向きは古びた雑居ビルの一室。ドアには潰れた不動産会社の名残の看板が、そのまま残されている。中に入れば蛍光灯の光がやけに白々しく殺風景な休憩室を照らしていた。
AM9:30
「――正臣ーー!! 起きろ!!」
財前真弥の怒声が狭い休憩室に響き渡った。
ソファに突っ伏していた陣内正臣が緩慢な動きで片目だけを開けた。
「……カチコミか」
「仕事だ! バカたれ」
「……無理……これは……二日酔いだ」
陣内はそのままソファに顔を埋め直した。指先すら動かす気配がない。
「起きろっつってんだろうが!」
財前がソファのクッションを力任せに引き抜く。陣内は支えを失い、床にずるりと転がり落ちた。
「――弱きを全力でくじいていいのかよ」
陣内は床に座り込んだまま寝癖のついた頭を掻いた。目の下のクマが昨夜の惨状を如実に物語っている。
「そんなとこで寝るお前が悪い!」
「ソファは寝る場所だろ」
「仮眠室があるだろうが」
「あそこ、夕花が勝手に居座ってる」
財前は大きくため息をついた。
「――お前の式、なんで休憩室にまで出張ってくるんだよ」
「気まぐれが遊女の本懐なんだと」
「随分と、仲良くやってるみたいじゃねえか」
財前がニヤリと笑いながら、そう言った。
「――どういう意味だよ」
「別に。お前らの解魂、いつ見ても様になってるなと思ってな」
陣内は僅かに視線を逸らした。
「……仕事の連携が、いいだけだ」
「はいはい、そういうことにしといてやるよ」
その時、扉が軽やかに開いた。
「おはようございます〜」
現れたのは西条ももだった。手にはコンビニの袋を提げている。
「遅い!」
財前が間髪入れずに怒鳴った。
「コンビニ、寄ってました」
もも は悪びれもせず答えた。
「何買った!」
「プリン」
陣内が床に座り込んだまま期待の眼差しを、もも に向けた。
「俺の分は」
「なんで、あると思わはったんですか」
陣内の氷結より冷たく固い顔で、もも が即答した。
「――ぜんっぜん容赦ねえな、お前」
陣内が深く項垂れる。
「昨日、陣内さんの資料、代わりに書いたん、うちですやん」
「あれは、緊急事態だっただろ」
「緊急でスナックに出動しとるん、うちが知らんとでも」
「……それは、その、別件で」
「別件て。スナック以外に、どこ行くとこあるんですか」
陣内はぐうの音も出ない様子で口を噤んだ。
財前は二人のやり取りを腕を組んで眺めていた。その口元に隠しきれない笑みが浮かんでいる。
「お前ら、朝から仲良しだな」
「どの角度から見たら、そう見えるんだか」
陣内が床に座ったまま答えた。
「ヤクザ界隈の視点やろ」
もも は袋からプリンを取り出しながら、あっけらかんと言った。
「よし、お前、今日の書類仕事な」
「――は?」
もも の顔が一瞬で強張った。
「財前さん、それはあかん。パワハラや」
「こっち界隈に興味あるだろ」
「なんでそうなんねん!」
「若手が育つチャンスだぞ」
「その理屈、毎回都合よすぎません?」
「細かいことは、気にすんな」
「細かないですやん! 毎回毎回、うちの週末返してください!」
もも が本気で抗議する声が休憩室に響いた。財前は素知らぬ顔でコーヒーのお代わりを注いでいる。
休憩室に賑やかな声が響き渡る。
その様子を、部屋の隅、静かに佇んでいた鬼燈が微笑ましそうに見守っていた。
「――皆様、朝から、賑やかにございますね」
誰に言うでもなく、そう呟いた鬼燈の口元にも微かな笑みが浮かんでいた。
「鬼燈さんは、平和やわぁ」
もも が羨ましそうに、そう言った。
「私は、ただ、見ているだけにございます」
「その"見ている"が、一番怖いんだよなぁ」
陣内が床に座ったまま、ぼそりと呟いた。
「あら、何か、おっしゃいましたか」
「――いや、何も」
陣内は慌てて視線を逸らした。財前が豪快に笑った。
「鬼燈は、俺よりよっぽど、こいつらのこと見てるからな」
「真弥様が、あまりにも、目を離せない方だからです」
「――俺のことかよ」
「あなたも、なかなか、お人が悪い」
鬼燈が静かに、そう呟いた。財前が驚いたように彼女を見る。
「――今、何か言ったか」
「いいえ、何も」
鬼燈はいつもの折り目正しい笑みに戻り湯呑みを片付け始めた。だが、その口元には微かな悪戯心が確かに滲んでいた。
東京の朝は今日も、こうして始まる。
書類仕事から逃げようとするもも、二日酔いでいまだ床に座り込んだままの陣内、そして、そんな二人を眺めながら、どこか楽しげな財前。三者三様の朝が今日も変わらず繰り返されていく。
誰にも知られていない彼岸という組織の、ごく普通の一日の始まりだった。表向きは平和なオフィスの朝でありながら、その裏には東京の平安を静かに守り続ける者たちの確かな絆があった。




