第41話「託されし秘奥」
「――渡したいもの?」
颯太は荒い息のまま凪を見た。
凪は静かに颯太との距離を一歩、詰めた。
「まず、一つ目」
凪の指先が颯太の胸の辺りに、そっと触れた。
その瞬間、颯太の中で何かが静かに動いた。
「――今の、なんだ」
驚きと戸惑いが同時に胸に広がった。何かが確かに体の奥に根を張ったような感覚だった。
「神鳴を完全に使役するための術式だ」
「術式、って、こんな一瞬で」
「言葉じゃない。魂に直接刻み込んだ」
凪は静かに続けた。
「今の君は神鳴の力を、まだ"借りている"段階でしかない。力を持つことと力を扱うことは違う」
右目の奥に、これまでとは違う感覚が静かに根付いていくのを感じた。
「これで君は、神鳴を自分の意志で完全に使役できるようになる」
「――ありがたい、けど」
僅かに警戒した。何の見返りもなく、これほどの力を渡されることに素直に喜べない自分がいた。
「なんで、そんな大事なもの、俺に」
凪は静かに目を伏せた。
「一つ、伝えておかなきゃいけないことがある」
「――なんだ」
「神鳴を完全に使役するほど、君の中に僕の力が――戻ってくる」
颯太の心臓が大きく跳ねた。
「戻る、って」
「強くなればなるほど、君は"次の凪"に近づいていく」
そう言った後、凪は一瞬、言葉を切った。何かを続けるべきか迷っているような微かな間だった。だが結局、それ以上は何も言わず静かに話を続けた。
言葉を失った。
力を得るということが、そのまま自分が恐れていた運命に近づくことを意味している。
「――それでも、渡すのか」
颯太の声が震えた。
「うん」
凪は迷いなく頷いた。
「君には、必要な力だ。美咲を救うにしろ救わないにしろ、この先、君には力がいる」
拳を強く握りしめた。
「あんたは、それでいいのか。俺が、あんたに近づいていくのを、見てて」
凪は微かに笑った。その笑みには悲しみと、どこか覚悟に似たものが同居していた。
「見てみたいんだ。君が、この先、何を選ぶのか」
その言葉に何も返せなかった。恐ろしいはずなのに、なぜか、その眼差しには悪意のようなものが少しも感じられなかった。
凪は腰に佩いていた一振りの刀に手を掛けた。
鞘から静かに刃を抜く。月光を受けて白銀の刃が鈍く光った。柄には水紋を思わせる複雑な紋様が刻まれている。触れてもいないのに刃の表面を水の粒が伝っているようにさえ見えた。
「これは、僕が長い間、使ってきたものだ」
凪はその刀を颯太に静かに差し出した。
「名は、水鏡」
「――水鏡」
颯太は、その名を口の中で確かめるように呟いた。不思議と初めて聞くはずのその響きが耳に馴染んだ。
「この刀には、僕の力の根源――龍の性質が宿っている。水を統べ、時に荒れ狂う力だ」
「龍……」
「暴れ狂う多摩川の正体は、主である水龍なんだ。それを抑える役割が凪だ」
「それ、昔聞いたことあるかもしれない」
「本来、常盤の血と龍には強い結びがある。君ならこの刀も扱えるようになるだろう」
その言葉に、颯太は自分の中に流れる血の重みを改めて感じた。知らないうちに自分自身の根っこの部分に、そんな繋がりがあったのかと思うと不思議な感覚だった。
「使い方は、教えない」
凪は静かに、そう言った。
「名前だけで十分だ。使い方は君自身が、いずれ見つける」
「――受け取ってほしい」
その刀をじっと見つめた。
「……なんで、俺に」
「君が、この先何を選ぶのか。それを見てみたいから」
震える手で刀の柄を握った。冷たく、それでいて、どこか懐かしい重みがあった。
「これ……俺が、使っていいのか」
「君が何になるのかは僕には決められない」
凪は静かに颯太を見つめた。
「だから、君自身で決めればいい」
その刀を両手で、しっかりと握りしめた。
「――あんたは、これを使えば、俺があんたに近づくって、言った」
「うん」
「それでも、俺は」
満月を一度、見上げた。それから、まっすぐ凪を見据えた。
「それでも、俺は、美咲を救う」
凪はしばらく颯太を見つめていた。その瞳には拒絶も失望もなかった。ただ静かな覚悟にも似た色だけが、そこにあった。
「――そうか」
凪は小さく頷いた。
「それが、君の答えなら」
風が静かに河原を撫でた。満月の光が颯太の手にある刀を白く照らしていた。
殺し合いではなかった。答えが出たわけでもなかった。それでも、この一夜だけで颯太の中の何かが決定的に変わった気がした。
ただ確かに自分の足で一歩、前に進んだ。
「――また、会えるかな」
颯太がそう問うと、凪は静かに微笑んだ。
「君が、望むなら」
その姿が水面に溶けるように少しずつ薄れていく。
「颯太」
消える直前、凪の声がもう一度届いた。
「――どうか、君のままで、いてほしい」
その一言が、これまで交わしたどの言葉よりも深く、颯太の胸に刻まれた。
その声を最後に、凪の姿は完全に水の中へと消えていった。
水面は再び静かに満月を映し始めた。
手の中の刀をじっと見つめた。
その重みは確かに希望であり、同時に恐れでもあった。この一振りが颯太をどこへ導くのか、まだ何も分からない。それでも、この手に確かに託されたものがある。
深く息を吐いた。
夜風が頬を撫でる。遠くで澪たちが待っている。ここまでの静寂とは違う、確かな日常の気配が少しずつ戻ってくるようだった。
刀を静かに腰に佩いた。
これから、始まる。




