第40話「深淵」
凪の表情が初めて大きく揺れた。
これまでの静かで、全てを見通しているかのような佇まいが、一瞬、崩れた。まるで長年、完璧に取り繕ってきた仮面に、初めて罅が入ったかのようだった。
颯太は、その反応を見逃さなかった。
「――知ってるんだな」
声が震えた。
「あんた、知ってて、黙ってたんだな」
今夜、この短い時間の中で少しずつ芽生えかけていた何かが、音を立てて揺らぐような感覚があった。
凪はしばらく何も答えなかった。ただ川面に視線を落としていた。月光を映す水面が静かに揺れている。
「――知っている」
やがて凪は静かに、そう認めた。
「だが、答えられない」
「なんでだ」
颯太の声が荒くなった。
「知ってるなら、教えろよ。誰が、美咲を――」
「颯太」
凪の声は静かだった。だが、その静けさが、かえって颯太の言葉を止めた。
「これは、システムの最も深部に触れる話だ。僕の口から直接、君に伝えることは許されていない」
「許されて、ない……?」
「そう。これは僕自身の意志とは、また別のところにある制約だ」
「意志と、別って、どういうことだよ」
「僕は"凪"という役割を担っている。役割には、役割としての超えられない一線がある」
凪の声には初めて明確な苦しさが滲んでいた。
拳を強く握りしめた。
「――ふざけるな」
声が震える。
「美咲が、どうやって死んだのか。それすら、俺は知る資格がないのか」
凪は颯太をまっすぐ見つめた。その瞳に、これまで見たことのない深い苦悩の色が浮かんでいた。
「――違う」
「何が違うんだよ!」
思わず声を荒げた。
「資格がない、って言ってるんじゃない」
凪の声が僅かに震えた。
「今、この場で君に伝えることが、君自身にとって、あまりにも――残酷すぎるからだ」
息を呑んだ。
「残酷、って」
「言葉で聞くだけで、君は二度と元の自分には戻れなくなる。そういう類の真実だ」
「――それでも、知りたい」
「知りたい、と思う気持ちと、受け止められる強さは別のものだ」
凪は静かに目を伏せた。
「それに、あれは彼女自身が選んだことだ。軽々しく言葉にしていいものじゃない」
「選んだ、って……美咲が、自分で?」
その一言に、颯太の心臓が大きく跳ねた。これまでただの被害者だと思っていた美咲の姿が、その一言だけで揺らいだ気がした。
「それ以上は、言えない」
凪は静かに、しかし、はっきりと線を引いた。それでも、しばらくの沈黙の後、何かを思い直したように再び口を開いた。
「――ただ、これだけは伝えておく。それだけじゃない。これには――もっと古い因果が絡んでる」
――因果。
意味は分からない。だが、その響きだけが妙に胸の奥に沈み込んでいった。まるでずっと昔から、その言葉を知っていたかのような奇妙な既視感すらあった。
「もっと古いって、どれくらい」
「今の君には、まだ想像もつかないくらい」
「――理由も、話せないのか」
「君を、守るためだ」
凪は静かに、そう言った。
「今、君に全てを話せば、君は間違いなく道を誤る。この沈黙も、システムの制約であると同時に僕自身の判断だ」
何も言えなくなった。怒りと困惑と、そして言いようのない不安が同時に胸の中で渦を巻いていた。それでも、「因果」という一言だけは頭の片隅から離れなかった。この先、必ずその意味を知る日が来る――そんな予感だけが確かにあった。
「――いつか、分かる日が来る」
凪の声が静かに続いた。
「その時、君は、今よりもっと深淵に立っている必要がある。今の君じゃ、まだ足りない」
颯太は、その言葉を噛み締めるように繰り返し反芻した。今はまだ届かない場所がある、という事実だけが、はっきりと胸に刻まれた。
「足りない、って、何が」
「覚悟が」
凪は短く、そう答えた。
「覚悟なら、あります」
「今は、そう思ってるだけだ。本当の覚悟は失って初めて分かる」
凪の声には経験に裏打ちされたような重い響きがあった。
その言葉の重さを体の芯で受け止めた。
沈黙が二人の間に落ちた。川の流れる音だけが静かに、辺りを満たしていた。
「――颯太」
しばらくして凪が口を開いた。
「今日、君に伝えたかったことは、もう伝え終えた」
荒い息のまま凪を見た。まだ聞きたいことは山ほどあった。だが、これ以上問い詰めても答えは返ってこないだろうという確信も同時にあった。
「これから先、君がどう動くかは、君自身が決めることだ。僕は、それを決してねじ曲げない」
その言葉には単なる約束以上の、何か固い決意のようなものが込められている気がした。まるで、その一線だけは何を代償にしても守り抜くと決めているような。
凪は静かに立ち上がった。
「ただ、一つだけ」
「――なんだ」
「君に、渡したいものがある」
「――渡したいもの、って」
目を見開いた。予想していなかった言葉だった。
「見れば、分かるよ」
凪の纏う気配が僅かに変わった。これまでの深い悲しみを湛えた空気とは少し違う。何か覚悟にも似た静かな決意のようなものが、そこにあった。
颯太は息を殺して、その一挙手一投足を見守った。
満月が二人の間に静かに光を落とし続けていた。




