第39話「覚悟の淵」
「それでも、俺は」
颯太は震える声を必死に絞り出した。
「美咲を、救いたい」
凪は何も言わず、ただ颯太を見つめていた。長い沈黙の後、静かに口を開いた。
「――分かってる。君のその気持ちを否定するつもりはない」
その声は、これまでで一番優しかった。
「むしろ、僕は応援したいとすら思ってる」
颯太の心臓が跳ねた。
「応援、って」
「君の願いは綺麗だ。誰かを心の底から救いたいと願う気持ち。それを間違ってるなんて僕には言えない」
凪の言葉が颯太の胸に染み込んでいく。これまで誰にも、こんなにもまっすぐに、この願いを肯定されたことはなかった。
だからこそ次の言葉を恐れた。
「――でも」
案の定、凪は続けた。
「過去を変えるということは、この世界にとって最大級の禁忌なんだ」
「禁忌……」
「たとえ君が、美咲が生き残る世界を作れたとしても」
凪の瞳が深く暗く揺れた。
「世界はその改変を、そのまま受け入れない。均衡を取り戻そうとする力――"調整"が必ず働く」
息を呑んだ。
「調整したら、どうなるんだ」
「分からない」
凪は静かに首を振った。
「僕にも正確には予測できない。ただ一つだけ確かなことがある」
「――なんだ」
「美咲を救ったことで、別の場所で、もっと大きな悲劇が起きる可能性がある」
颯太の全身から血の気が引いた。
「そんな……」
「君が知らない誰かの命かもしれない。あるいは、もっと大きな何かかもしれない」
凪の声は脅すようなものではなかった。ただ事実を静かに告げているだけだった。それが、かえって颯太の心を深く抉った。
颯太の右目の奥で熱が、これまでにない強さで暴れ始めた。
「――なあ、颯太」
凪が颯太に、そっと顔を近づけた。
「君は、何も悪くない」
その声が颯太の耳の奥に直接流れ込んでくるようだった。
「大切な人を救いたいと願うことは罪じゃない。君は、ただ優しいだけだ」
颯太の視界が僅かに揺れた。
「その痛みは、もう手放していい」
言葉の一つ一つが、まるで生温かい水に体をゆっくりと沈めていくようだった。思考が少しずつ重くなっていく。何かを考えようとしても輪郭がぼやけて掴めない。
凪の手が颯太の頬に、そっと触れようとした。
冷たく、それでいて、どこか懐かしい感触。
「僕と、同じになれば――楽になれるよ」
颯太の意識が遠のきかけた。
右目の熱が限界を超えて膨れ上がっていく。視界の端が白く滲み始めた。
抗おう、という気持ちすら、どこか他人事のように感じられた。まぶたが重い。指先の感覚が遠い。
美咲を救いたい。ただ、その一心だけが辛うじて意識の奥に残っていた。
その時、体の奥底から不意に、ある感覚が蘇ってきた。高尾山で何度も何度も体に叩き込んだ、あの呼吸。土砂降りの中、雨音に負けじと繰り返した、あの型。
――息を、吐け。
颯太は無意識のうちに細く長く息を吐いていた。
鈍っていた思考の輪郭が、ほんの少しだけ戻ってくる。
凪の指先が颯太の頬に触れる、その寸前。
颯太の脳裏に唐突に声が過ぎった。
――颯太、次に何かが来た時、絶対に妖の言葉に耳を貸すな。
澪の声だった。
――多摩川で何を見ようとも、颯太くんが颯太くんであることを忘れないことだ。
玄一の静かな忠告。
はっと我に返った。
凪の手が頬に触れる直前で身を引いた。
「――ッ」
崩れるように後ずさる。膝が笑っていた。荒い息がいつまでも整わない。全身が、まるで何十発も殴られた後のように重く痺れていた。
肉体的な傷は、どこにもない。それなのに、これまで戦ってきたどの相手より消耗していた。
凪は伸ばした手を静かに下ろした。その表情に失望の色はなかった。むしろ――
「――今の、悪くなかったよ」
凪は小さく笑った。
「僕を拒める人間は、そう多くない」
その口調には、からかいと僅かな敬意が同時に滲んでいた。
荒い息のまま凪を睨んだ。
「――あんた、今、俺を、堕とそうとしたのか」
「うん」
凪はあっさりと肯定した。
「試したかった。君が、まだ君のままでいられるかどうか」
言葉を失った。怒りと安堵と、それから僅かな理解が同時に押し寄せてきた。試されていたと分かっても、なぜか怒りだけにはなりきれなかった。
「――ひどい、真似を」
「ごめんよ」
凪は素直に謝った。
「でも、これが僕にできる精一杯の"確認"だった」
その言葉を口にした凪の表情には確認できたことへの安堵にも似た何かが微かに滲んでいた。まるで、この結果に颯太自身が想像する以上の何かが懸かっていたかのように。
荒い呼吸を整えながら凪をまっすぐ見据えた。
「――もう一つ、聞きたいことがある」
「なんだい」
震える声で、ずっと聞きたかった問いを口にした。
「あの夜、何が、あったんだ。誰が――美咲を殺したんだ」
その一言を口にした瞬間、右目の奥が、これまでとは違う鈍い痛みを伴って疼いた。まるで、その問い自体が何か大きな禁を犯しているかのような、そんな感覚だった。
凪の表情が初めて大きく揺れた。




