第37話「凪の刻」
「――やっと、会えたね」
その声は、水面を渡る風のように、静かに颯太の耳へ届いた。
颯太は、動けないまま、目の前の存在を見つめていた。喉が、からからに渇いている。瞬きすら、忘れていた。
白い着物。水のように艶やかな、長い白髪。整いすぎた顔立ちは、人のものとは思えないほど、静謐だった。だが、その瞳の奥だけは、深い川の色を湛えている。
夜風が、二人の間を、静かに通り抜けていく。それなのに、凪の白髪だけは、微動だにしなかった。まるで、この場所の時間の流れから、一人だけ切り離されているかのように。
「――あなたが」
声が、掠れた。喉の奥から、無理やり絞り出したような、頼りない響きだった。
「凪」
「うん」
その存在は、小さく頷いた。まるで、旧知の友人と再会したかのような、自然な仕草だった。声も、佇まいも、どこか懐かしさを感じさせる何かがあった。
「僕には、他に呼び方がないんだ。だから、それでいい」
颯太の右目の奥、これまでのどの熱とも違う感覚が、静かに脈打っていた。恐怖ではない。もっと、根源的な何か。
「――知ってる。君がここに来るまで、何を積み重ねてきたか」
凪の視線が、颯太の全身を、優しくなぞる。まるで、何かを確かめるような、それでいて、慈しむような視線だった。
「梓澪と出会って、神鳴と繋がって。高尾山で、雨に打たれて。財前や陣内、西条とも、出会ったね」
「――全部、知ってるのか」
「全部、とまでは言わない。でも、大まかな輪郭は、ずっと追いかけていた」
凪の声には、隠しきれない親しみが滲んでいた。まるで、遠くから見守ってきた我が子の成長を、静かに語るような口調だった。
「――なんで」
「見ていたかったから」
凪は、静かに答えた。
「ずっと、遠くから。君が、生きていく様子を」
颯太の心臓が、重く鳴った。
「あんたが、俺を見てた……?」
「うん」
凪は、まるで当然のことのように、頷いた。
「怖がらせるつもりはなかった。ただ、目を離せなかったんだ」
その言い方には、どこか、痛切な響きがあった。まるで、見守ること以外に、何もできなかった、とでも言いたげな。
「君は、僕にとって、特別だから」
「特別、って、どういう意味だよ」
「今は、まだ言えない。でも、いずれ、分かる」
凪の答えは、はぐらかしているようで、はぐらかしていないような、奇妙な響きを持っていた。嘘はついていない。ただ、全てを語る気もない――そんな気配だった。
その一言が、颯太の中の、一番柔らかい場所に、そっと触れた。
誰かに、ずっと見守られていた。それも、こんなにも近い距離から。
嬉しさと、薄気味悪さが、同時に込み上げてくる。その感情の名前を、うまく付けられなかった。まるで、長年、片思いをしていた相手から、実はずっと想われていたと告げられたような、そんな居心地の悪さすら、混じっていた。
「――俺の目的、知ってるんだろ」
震える声を、無理やり絞り出した。
「美咲を救いたい」
凪の表情が、僅かに、変わった。悲しみとも、慈しみとも取れる、複雑な色。
「その名前を口にする時、君の声は、いつも、少しだけ震える」
「――そんなの、当たり前だろ」
「知ってるよ」
「なら」
凪は、颯太の言葉を、遮らなかった。ただ、静かに、続きを待っていた。
「あんたの力があれば、過去に戻れる。美咲が死ななかった世界を、作れる」
拳を握りしめた。
「頼む。力を、貸してくれ」
沈黙が落ちた。川の流れる音だけが、二人の間を満たしていた。夜風が、水面に、小さな波紋を幾つも作っては、消していく。
凪は、しばらく、颯太を見つめていた。その目に浮かんでいたのは、拒絶ではなかった。もっと、深い何か――颯太には、まだその正体が分からない感情だった。まるで、長い年月をかけて温め続けてきた想いが、ようやく形を持ち始めたような、そんな重みがあった。
「――颯太」
凪が、静かに口を開いた。
「君の気持ちは、痛いほど分かる。本当に、痛いほどに」
その声には、颯太自身の痛みと、どこか重なる響きがあった。
「でも、その前に。話しておかなきゃいけないことが、たくさんある」
息を呑んだ。喉の奥が、急速に乾いていくのを感じた。何かを知ってしまう予感が、体の芯を、冷たく締め付けていた。
「――俺に、話す?」
「そう」
凪は、颯太に、静かに手を差し伸べた。冷たそうに見えて、意外にも、その仕草には、温かみがあった。
「座ろうか。長い話になる」
少し迷った後、その手は取らず、河原の石に、自分から腰を下ろした。
凪は、それを見て、微かに笑ったように見えた。拒絶されたことを、責めるでも、悲しむでもなく、ただ、そのまま受け入れるような笑みだった。まるで、颯太のその頑なさすら、愛おしいとでも言うように。
満月が、二人を、静かに照らし続けていた。
これから語られる話が、颯太のこれまでの全てを、覆すかもしれない。そんな予感が、静かに胸の奥に広がっていった。




