第36話 「邂逅の刻」
満月が雲の切れ間から白く光を落としていた。
春の風に、芽吹いた草の若い香りが漂っている。冬の間ずっと固く閉じていた大地が少しずつ息を吹き返し始めているようだった。
颯太は河川敷の入り口に立っていた。隣には澪。いつもと変わらぬ凛とした表情だが、珍しく両手に抱えられた影行は、心配してくれているのか瞳がいつもより不安げだ。
「――本当に、いいんだな」
澪の声には、いつもの硬さの奥に隠しきれない緊張があった。
「はい」
短く答えた。迷いは、もうない。
だが、澪の表情には、まだ何か言いたそうな色が残っていた。
「――何か、ありますか」
「……いや。行け」
澪は短く、そう言った。それ以上は何も続けなかった。
懐から符を取り出す。手のひらの上、小さな影が身じろぎした。
「神鳴」
名を呼ぶと影が膨れ上がり、狼の姿を取った。青白い光が、その毛並みを伝う。
神鳴の目をまっすぐ見た。澄んだ綺麗な碧。この目を見るたび、颯太は初めて出会った、あの山道の夜を思い出す。
「――案内してくれるか。お前が、ずっと仕えてきた場所へ」
神鳴はしばらく颯太を見つめた後、静かに頷くように首を垂れた。
そして歩き出した。
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河川敷を上流へ向かって歩く。街灯の明かりが次第に少なくなっていく。
夜の静けさの中、二人分、いや、神鳴を含めれば三つ分の足音だけが規則的に響いていた。誰も多くを語らなかった。それぞれが、それぞれの想いを抱えながら、ただ歩き続けていた。
神鳴の足取りに迷いはなかった。まるで体に刻まれた記憶を辿るように、迷わずまっすぐに進んでいく。
その背中を追いながら、右目の奥の熱が、これまでとは違う質で疼いているのを感じていた。呼ばれている、という感覚に近かった。
やがて川の流れが大きく蛇行する場所に出た。
河原の石が月明かりを受けて青白く光っている。水面は不自然なほど静かだった。まるで鏡のように満月をそのまま映し込んでいる。
空気の質感が、ここだけ明らかに違っていた。音という音が遠くに退いていくような奇妙な静寂があった。
「――ここかい?」
颯太が問うと、神鳴は足を止めた。
これ以上、進む素振りを見せない。
澪も颯太の少し後ろで立ち止まっていた。
「颯太」
「はい」
「ここから先は、俺たちは行かない」
振り返った。
「行かない、というか……行けない、が正しいのかもな」
澪の表情には微かな苦さがあった。
「行けない、って」
「これは颯太、お前個人と、あの存在との間にある繋がりの領域だ。ここからは誰も立ち入れない領域だ」
「そう、なんですね」
「一族の因縁ってのには、割り込めない領域がある」
その言葉に、澪自身の隠しきれない悔しさが滲んでいる気がした。
「ここから先は、お前一人の問題だ」
深呼吸をした。冷たい夜気が肺の奥まで満ちていく。
これまでの日々が脳裏を巡った。美咲を失った、あの日。澪との出会い。財前、陣内、もも という八咫烏たち。玄一の言葉。全てが今、この一歩に繋がっている。
「――行ってきます」
「颯太」
「はい」
澪が颯太の名を呼んだ。それだけだった。それ以上、何も言わなかった。だが、その一言に、これまでの全てが込められている気がした。
神鳴の頭を一度だけ撫でた。
「――ここまで、ありがとう」
この数ヶ月、共に戦ってきた相棒に感謝の気持ちを込めた。
神鳴は颯太の手に鼻先を押し付けるようにした。それから一歩、下がる。
一人、河原へと足を踏み入れた。
石を踏むたび乾いた音が響く。水面が月光を受けて静かに揺らめいている。
振り返れば、まだ澪と神鳴の気配が感じられた。それだけで少しだけ心が落ち着いた。
川辺まで進んだ時、足を止めた。
水面が突然、大きく波打った。
風もないのに水しぶきが宙に舞う。思わず後ずさった。冷たい飛沫が頬に僅かに当たった。
波紋の中心から、何かがゆっくりと立ち上がってくる。
白い着物。長い、水面のように艶やかな白髪。人の形をしているのに、その輪郭全体から明らかに人外の只ならぬ気配が滲み出ていた。そして、得も言われぬ性別を超えた美しさだった。
颯太の全身が粟立った。これまで遭遇してきたどの妖とも格が違う。次元が違う。まるで目の前の存在が、この場所全体を静かに支配しているようだった。
その顔がゆっくりと、颯太の方を向いた。
深い川のような碧い瞳。
息を呑んだ。
どこかで見たことがある。いや――知っている。ずっと昔から知っている気がした。
「……颯太」
声が静かに、水面を伝って届いた。
優しく、それでいて、どこまでも深い何かを含んだ声。名前を呼ばれただけなのに、体の奥底まで、その響きが染み渡っていくようだった。
「――やっと、会えたね」
動けなかった。心臓の音が耳の奥で、やけに大きく鳴っている。全身の産毛が静電気を帯びたように逆立っていた。
満月の光の下、颯太と凪は初めて言葉を交わした。




