第35話「神人合一」
財前の神衣を目の当たりにした、その夜。
颯太は澪と二人、河川敷のベンチに座っていた。
まだ、あの光景の余韻が体の芯に残っている。
「――澪さんは、解魂、出来るんですか?」
思い切って尋ねた。
澪はしばらく黙った後、小さく息を吐いた。
「……ああ。影行とは、まだだ」
「そう、なんですね」
「何年一緒にいても、そういうもんじゃない。焦って辿り着けるもんでもない」
その声には隠しきれない複雑な響きがあった。
「じゃあ、財前さんたちの"神衣"は……」
「あれは、桁が違う」
澪ははっきりとそう言い切った。
「解魂にすら到達してない術者が大半だ。神衣まで至れるのは八咫烏クラスの、ほんの一握り。俺だって見たのは数えるほどしかない」
「――そんなに、珍しいものだったんですか」
「珍しいなんてもんじゃない。お前、自分が何を見せてもらったか、分かってるか?」
澪の目がまっすぐ颯太を見据えた。
「普通なら、何年、何十年かけても辿り着けるかどうかも分からない領域だ。それをたった数週間の修行で直接見せてもらえた。しかも財前が、わざわざお前のために力を見せた」
その言葉の重さが今更ながら、颯太の胸にじわりと沁みてきた。
「――俺、とんでもないことをしてもらってたんですね」
「ああ。お前が思ってる以上に非常識な修行を積んできてる。それだけは忘れるな」
澪の声には呆れとも誇らしさとも取れる複雑な色があった。
颯太は静かに川面を見つめた。財前の炎、陣内の氷、もも の光——この数週間で見てきた全てが脳裏を過ぎっていく。
自分は今、当たり前のように途方もないものの中を歩いている。その実感が今更ながら体の奥に染み込んでいった。
「――今日は、休め」
翌朝、澪から届いたメッセージは、それだけだった。
珍しいこともあるものだと、颯太は少し驚いた。これまで彼女が休養を明確に指示してきたことは、あまりなかった。
颯太は久しぶりに、何も予定のない一日を迎えた。体のあちこちに、まだ鈍い痛みが残っている。だが、心のどこかは妙に軽かった。
気づけば足は、あの神社に向かっていた。
境内は、いつも通り静かだった。参拝客の姿は今日もない。
本殿の脇、玄一が箒で石畳を掃いていた。颯太に気づくと手を止める。
「――颯太くん」
「ご無沙汰してます」
玄一は颯太をじっと見つめた。値踏みするような、いつもの視線。だが、その奥に何か違うものが混じっている気がした。
「顔つきが、変わったな」
「そう、ですか」
「以前は、何かに追い立てられているような目をしていた。今は――違う」
「自分では、あまり分からないんですけど」
「自分では案外気づかないものだ。それでいい」
少し照れくさくなって視線を逸らした。
「実は、報告があって来ました」
「言ってみなさい」
「次の満月に、多摩川へ行きます」
声に出してみると、その一言が思っていたより重く、そして確かな響きを持って聞こえた。
玄一の手が箒の柄の上で僅かに止まった。
しばらく沈黙があった。風が境内の木々を揺らす音だけが響く。
「――そうか」
玄一は静かに、そう呟いた。
「高尾山での修練は終えたのか」
「東京の八咫烏、三人に稽古をつけてもらいました」
玄一の眉が僅かに動いた。
「――彼岸が、もう動いているのか」
「はい。澪さんが、それまで俺の存在を隠してくれていたそうです」
「隠して……そうか。あの子らしい判断だ」
玄一の声に僅かな感慨が滲んだ。
これまでの経緯を掻い摘んで話した。財前のこと、彼岸のこと、"駒"と呼ばれたこと。
玄一は黙って聞いていた。最後まで口を挟まなかった。
「――そうか。もう、そこまで来ているのか」
玄一の声に僅かな重さが滲んだ。
「怖くは、ないのか」
少し考えてから首を振った。
「怖いです。正直、今でも」
「それでも、行くのか」
「行かなきゃ、いけない気がするんです」
玄一の目をまっすぐ見た。
「彼岸に勝手に決められるくらいなら。俺は俺の意志で、あそこに立ちたい」
その言葉に迷いはなかった。何度も自分自身に言い聞かせてきた言葉だった。
玄一はしばらく颯太を見つめていた。
やがて小さく息を吐いた。
「――美咲も、同じことを言っていた」
颯太の心臓が跳ねた。
「同じ、こと……」
「危険を承知で、それでも自分の意志で動く。あの子も、そうだった」
玄一の声に僅かな震えがあった。
「止められなかった。あの時も、今も」
「玄一さん」
「行きなさい」
玄一は颯太の言葉を遮るように静かに言った。
「ただし、一つだけ、覚えておきなさい」
「はい」
「多摩川で何を見ようとも、颯太くんが颯太くんであることを忘れないことだ」
「颯太くんであること、って」
「難しく考えなくていい。ただ、そこにいる自分を疑わないことだ。そして神人合一。君自身も、この世界の一つなんだと」
その言葉を静かに胸の奥に刻んだ。
「――ありがとうございます」
深く頭を下げた。
玄一はそれ以上何も言わず、また箒を動かし始めた。だが、その背中は以前よりも少しだけ丸く見えた。長年この境内を守り続けてきた重みが、その一挙手一投足に静かに滲んでいるようだった。
神社を出て、河川敷を、ゆっくりと歩いた。
冬の終わりの風は、まだ冷たかった。だが、その冷たさの中に微かに土の匂いが混じっている。凍っていた地面が少しずつ緩み始めている証だった。
枯れ草を踏むたび乾いた音が足元で鳴った。土手の斜面、まだ緑の少ない草むらの奥から、名前も知らない鳥の声が途切れ途切れに聞こえてくる。
川面は夕日を受けて橙色に染まっていた。流れる水の音が絶え間なく耳に届く。ちゃぷ、ちゃぷ、と岸辺の石にぶつかる規則的な響き。
足を止め、深く息を吸い込んだ。
冷たい空気が肺の奥まで満ちていく。土と水と枯れ草と、それから、どこか遠くで誰かが焚いているらしい焚き火の匂い。
目を閉じる。風が頬を撫でる感触。遠くの鳥の声。川のせせらぎ。土手の草が風に揺れて立てる乾いたざわめき。
この一つ一つが今、確かに颯太の周りに存在している。
それは当たり前のようで当たり前ではないことだった。この景色を、この匂いを、この音を、今、確かに感じることができている。
いつか、この体で、この感覚を失うかもしれない。だからこそ今、ここにいる自分を、颯太は強く意識した。
玄一の言葉が頭の中で繰り返し響いていた。颯太くんが颯太くんであること。それは今この瞬間、感じている全てのことと、きっと同じ意味なのだろう。
美咲との思い出の道を歩きながら静かに、その日を待っていた。
次の満月まで、あと数日。
目を開け、もう一度、ゆっくりと深呼吸をした。




