第34話「神衣」
もも との修行から数日、颯太が高尾山に着くと、既に大きな気配が待っていた。
「よお、小僧」
財前が木にもたれかかりながら片手を上げた。鬼燈が、その傍らに静かに佇んでいる。少し離れた木陰には澪の姿もあった。今日は彼女も付き添うことになっていた。今日の高尾山は、いつもより風が少なく静まり返っていた。
「今日は、俺の番だ」
「――財前さんの修行、ですか」
「陣内と西条から感触は聞いてる。悪くねぇ仕上がりだそうじゃねえか」
財前は豪快に笑うと颯太の肩を叩いた。手のひらの重みに思わずよろける。
「あの二人が、そんなこと言うんですか」
「意外か? あいつらも、ちゃんと見るとこは見てる」
財前はそう言いながら少し誇らしげな顔をした。まるで自分のことのように。
「だが、火は氷とも光とも違う。もっと単純だ」
「単純?」
「――ぶつかって、燃やす。それだけだ」
財前が拳を握る。その周囲に揺らめく熱気が立ち上った。
「氷雪は防御と支配、光は速度と視界。じゃあ、火は何か」
「……攻撃、ですか」
「半分正解だ。もう半分は――意志だ。それが人間の一番の強さだ」
財前の目つきが鋭くなる。
「意志、ってよく言いますけど、正直、まだピンと来てないです」
「そうだろうな。今は、それでいい。そのうち分かる時が来る」
財前の声には確信めいた響きがあった。
「燃やすには燃やしたいって想いがいる。技術だけじゃ本物の炎にはならねえ」
その言葉を静かに噛み締めた。
鬼燈が静かに口を開いた。
「颯太様。真弥様は力任せに見えて、誰よりも"何のために戦うか"を大切にする方です」
「――鬼燈、余計なこと言うな」
「事実にございます」
鬼燈は涼やかな声で、あっさりと言い返した。財前が決まり悪そうに頭を掻く。
「お前、いつもそうやって俺の恰好つかせねえよな」
「真弥様が、格好つけすぎなだけにございます」
思わず、また小さく笑った。この二人のやり取りにも、どこか温かみがあった。
「――んじゃ、まずは体で覚えろ」
財前が拳を構える。
「殴り合いだ。手加減はするが、遠慮はしねえ」
「手加減はしてくれるんですね」
「安心しろ、殺しはしねえよ。多少痛い思いはするだろうけどな」
財前の目に獰猛な光が宿った。冗談なのか本気なのか判別がつかなかった。まるで、これから始まる何かを心の底から楽しみにしているような目だった。
頷き、構えを取った。
拳が迫る。速さは、もも ほどではない。だが重さが、まるで違った。受け止めようとした瞬間、腕全体に鈍い衝撃が走る。
「――ッ!」
「甘い。もっと、腰を入れろ」
財前の拳が次々と繰り出される。躱すたび、掠るたび、皮膚が焼けるような熱を感じた。実際に火傷しているわけではない。だが、彼の拳には確かに"燃える意志"が乗っていた。息をするたびに、喉の奥まで、その熱気が入り込んでくるようだった。
何度目かの交錯の後、地面に膝をついた。息が上がっている。
「――鬼燈、お前もやれ」
財前が汗を拭いながら言った。
「私が、ですか」
「小僧に"人間の炎"と"異界の炎"の違い、見せてやれ」
鬼燈は僅かに目を伏せた後、静かに頷いた。
「――承知いたしました」
鬼燈の指先に小さな炎が灯る。だが、それは颯太が知る炎とは明らかに質が違った。熱がない。それでいて存在そのものを侵食するような不気味な揺らぎがあった。
「これは、燃やす炎ではございません。在り方そのものを作り変える炎にございます」
「作り変える、って」
「触れたものの本質を書き換える力です。人であれば、人でなくすることもできましょう」
その説明だけで背筋に冷たいものが走った。
鬼燈が静かに、その炎を颯太の目の前に近づける。
颯太の右目の奥が悲鳴を上げるように熱くなった。今までのどの感覚とも違う根源的な恐怖。
「――ッ、これは」
「感じましたか。これが、不知火の本質にございます」
鬼燈は炎を静かに消した。
「真弥様の炎は人の意志が燃える炎。私の炎は存在を変換する炎。同じ"火"でも性質が違うのです」
財前が腕を組みながら頷いた。
「小僧、覚えとけ。敵の"格"を見誤ると命取りになる。人間由来の力と、そうじゃない力。見分けがつくようになれ」
「見分ける方法は、あるんですか」
「感じるしかねえよ。ただ、今日お前は、その"違い"を確かに感じたはずだ」
その言葉に静かに頷いた。
ふと気になっていたことを口にした。
「あの、鬼燈さんって、普通に喋りますけど……もも さんに聞いた"解魂"の関係、ってことですか」
財前と鬼燈が顔を見合わせた。
「――ほう、もう教わってたか。話が早い」
財前が豪快に笑った。
「なら、その先を教えといてやる。俺と鬼燈は解魂のさらに先――"神衣"を」
「神衣……」
「式神を使役するんじゃない。身に纏う、ってやつだ。境界がほとんど無くなる」
鬼燈が静かに補足した。
「私と真弥様は、既に片方だけでは半人前とも言える域に至っております。それほどまでに深く結びついているのです」
「じゃあ、あの炎とかも」
「ああ。あれは俺の炎でもあり鬼燈の炎でもある。境目なんざ、とっくにねえよ」
財前は事もなげに、そう言い切った。だが、その一言の重みを、颯太ははっきりと感じ取った。
「――見てみるか。百聞は一見に如かず、ってやつだ。……澪! ばかデカい結界を張れ!」
財前の目が獰猛な光を帯びた。
「鬼燈、行くぜ」
「――畏まりました」
鬼燈が静かに一歩、財前へと近づく。二人の間の距離が、まるで吸い込まれるように消えていった。
「焔獄となりて、荼毘に伏せ――神衣」
その一言と共に世界が一変した。
財前の体を赤黒い炎が包み込んでいく。だが燃えているわけではない。炎そのものが彼の輪郭を新しく作り変えているようだった。
スーツが燃え上がるように解け、代わりに鎧のような筋肉があらわになる。背中には不動明王の刺青が彫られており赤く浮かび上がった。髪が燃えるように逆立ち、瞳の色が金色に変わっていく。
颯太は言葉を失った。
全身の毛が逆立つ。空気そのものが重く張り詰めていた。目の奥の熱が悲鳴を上げるように一気に膨れ上がる。これまで感じてきた、どの気配とも違う。格が、次元が違いすぎた。
「――これが、神衣だ」
財前の声は、これまでと同じはずなのに、まるで別の生き物が喋っているような重厚な響きを持っていた。
颯太は、ただ、その場に立ち尽くすことしかできなかった。膝が震えている。逃げろ、という本能の警告と、目を離せない、という衝動が同時に体を縛っていた。
しばらくして赤黒い炎が静かに収まっていく。財前の姿が元の、いつもの豪快な男へと戻っていった。
「――どうだ。ちったぁ、目標ができたか」
息を整えながら、何とか頷いた。声がうまく出てこなかった。
「今のお前じゃ逆立ちしたって届かねえ領域だ。それでいい。今は知っとくだけで十分だ」
財前はそう言うと、颯太の肩を軽く叩いた。
「じゃあ、俺と神鳴は」
「まだ、使役の段階だろうな。命令しなきゃ動かねえ、ってことは」
図星だった。答えられずにいると、財前が豪快に笑った。
「焦るこたぁねえ。解魂すら、まだ先の話だ。だが覚えとけ。お前と神鳴が、いつか神衣にまで至れた時――お前は今とは比べ物にならねえくらい強くなる」
その言葉が胸の奥に静かに刻まれた。
いつか神鳴と、そこまで深く繋がれる日が来るのだろうか。その想像だけで目の奥の熱が僅かに疼いた。
拳の痛みと、鬼燈の炎が残した根源的な恐怖――その両方が颯太の中に消えない教訓として刻み込まれていった。
人間の炎と異界の炎。同じ"火"という言葉で括られていても、その本質はまるで違う。この違いを見分けられなければ、いつか致命的な判断ミスを犯すことになる。財前の言葉が今更ながら重みを増して響いた。
美咲を救いたいという願い。彼岸という脅威。そして、これまで出会ってきた全ての人の教え。
その全てを握りしめた拳に込めるように、財前に向かって、もう一度地を蹴った。




