第33話「式の声」
陣内との修行から数日後。
「――颯太、今日はもう一人、来る」
澪の声には珍しく少し柔らかい響きがあった。
「財前さんですか」
「いや。もう一人の八咫烏だ。西条もも」
「もう一人、って、他にも」
「東京23区を守ってるのは財前、陣内、もも。三人一組だ」
風が吹いた。見上げると見たことがない鳥が旋回している。何かが降りてくる。
空から降りてきたのは淡いピンク色の髪をした少女だった。年齢は颯太と、そう変わらないように見える。上品な着物にモダンなアクセサリーを合わせた独特の装い。着地の瞬間、足元で光の粒子が雪のように舞い散った。
「――ほんまに若い人やぁ」
突然そう言い放たれ、面食らった。人懐っこい京都訛りが耳に新鮮に響いた。
「え?」
「初めましてやのに、えらいすんまへんでした」
少女はあっけらかんと笑った。人懐っこい、それでいて底知れない何かを秘めた笑顔だった。
「西条ももです。よろしゅうおたの申します」
「颯太、です。よろしくお願いします」
澪が簡単に紹介する。心なしか、いつもより口調が柔らかい気がした。
「ももは同年代のやつがいる、って聞いて、えらく喜んでたらしい」
「――ちょっと、澪さん。それ、言わんでよろしいやん」
もも は頬を僅かに赤らめながら抗議した。両手をぶんぶんと振り回している。
「事実だろ」
「事実やけども!」
思わず小さく笑ってしまった。この二人のやり取りにも、どこか温かみがあった。緊張していた肩の力が少しだけ抜けていく。
「――なんや、笑わんといてぇな」
「すみません。なんか、新鮮で」
「新鮮て何やの、お魚みたいに」
もも は少し拗ねたように唇を尖らせた。だが機嫌が悪いわけではなさそうだった。
「うち、東京来てから、颯太くんと澪さんが、初めての"普通"の知り合いなんですわ。京都におった時なんか、周りおっちゃんばっかりやったさかいなぁ」
「京都、出身なんですか」
「せや。生まれも育ちも京都。東京は、まだ全然慣れへんわ」
もも は少し遠い目をしながら、そう言った。
その言葉に僅かな親近感を覚えた。
「じゃあ、今日は、何を」
「――式の使い方、教えたげるわぁ。颯太くんの式はどんな子なん?」
「神鳴という狼で、名前の通りで……」
「OK、まだ式については真っ白やね」
「はぁ、戦うときに神鳴にはいつも助けてもらってますけど、まだよくわからなくて」
「また声も聞こえてないやろ? 使役してるだけで、式は颯太くんのこと認めてないんよ」
もも はあっさりと、そう言い切った。
もも は指先に小さな光の粒を灯した。柔らかな光が雨上がりの空気に淡く滲む。
「あまちゃん、おいで」
光が集まり輪郭を持つ。青白く輝く鷺の姿をした式神だった。翼を広げると周囲の空気が僅かに発光した。羽ばたきのたび、鈴を転がすような澄んだ音がした。
「あまちゃん、今日もお願いな」
「まかしとき! ほな、行くでぇ」
天寧の声は、よく通る賑やかな響きを持っていた。鳴き声というより、まるで近所のおばちゃんが気安く返事をするような、そんな親しみやすさがある。もも と天寧の間には命令とは違う、もっと対等な空気があった。まるで親子か、あるいは親友のような。
「颯太くん、あまちゃんの声も聞こえる?」
「はい。不思議な感覚ですが」
「よろしい、ほな式を呼び出してな」
「――来い、神鳴」
空気がぴりっと張り詰めた。次の瞬間、遠吠えとともに神鳴が顕現する。
「かわいい狼さんやね。ほな、まずは実践からきましょか」
次の瞬間、光が颯太のすぐ背後に瞬間移動したかのように現れた。
「――ッ!」
咄嗟に身を捻る。だが反応が明らかに遅れていた。
「今ので、避けられへんかったら、実戦じゃ即死やで」
もも の声は軽やかだった。だが、その言葉の重みは決して軽くなかった。背筋に冷たいものが走る。
「もう一回、行くで。今度は、天寧と、うちの、二方向や」
「二方向、って、同時に来るんですか」
「当たり前やん。実戦で敵が一体だけとは限らへんやろ」
もも の声はあくまで軽やかだった。だが、その言葉の中身は容赦がなかった。
目の奥の熱を意識に集める。だが、もも と天寧の動きは、これまで対峙してきたどの相手とも質が違っていた。
速すぎて、"感じる"間もない。
光が右から迫る。同時に左からも。
「――澪さん、これ」
「見た通りだ。神速には、お前だけじゃ追いつけない」
澪が静かに補足した。
「目に頼りすぎるな。神鳴が感じ取ってる微弱な電気信号はお前も感じ取れるはずだ」
澪の言葉に頷いた。
目を閉じたまま、意識を神鳴との繋がりへと向けた。
微かなぴりぴりとした感覚。右から、そして僅かに遅れて左から。
体を二つの気配の間へ滑り込ませるように動かした。
直後、天寧の光の刃と、もも の刃が颯太の両脇を紙一重で通り抜けた。
「――え」
もも が初めて驚いたような声を上げた。目を丸くして颯太を見つめている。
「今の、避けたん?」
「……何とか」
息が上がっていた。だが、確かに躱せた。全身から汗が噴き出していたが、それ以上に確かな手応えが胸の中にあった。
「やるやん、颯太くん」
もも の顔に悪戯っぽい笑みが浮かぶ。
「安心し。うち、教えるん上手いんやで」
「よろしくお願いします」
ふと気になっていたことを口にした。
「あの、もも さんと天寧さんって、なんか普通の主従関係と違う気がします。言葉を交わさなくても通じ合ってるみたいな」
もも は少し驚いたように目を瞬かせた。
「――よう気づいたなぁ。それ、"解魂"いうんよ」
「解魂……」
「使役だけやと命令せな動かへん。でも、魂の境界を解いたら式の声が聞こえるようになる。もっと進んだら言葉すら要らんくなる」
あまちゃんが颯太の傍らに舞い降り、その説明をじっと聞いているようだった。
「うちと天寧は、もうとっくにそこを超えとる。せやから、こうやって、ほとんど息するみたいに一緒に動けるんよ」
「――どうやったら、そこに辿り着けるんですか」
「式との信頼関係が一番やろね。そこの狼ちゃんを颯太くんがどれぐらい愛せてるか、式も主人をどれだけ大切に感じるかで、かなり変わってくるんちゃうかな」
もも は少し遠い目をしながら続けた。
「式の声にいつでも耳を傾けて理解したいって心がほんまに大事やとおもうよ」
「式の声、ですか」
「そう! ただうちの場合はちょっと特別やからなぁ。天寧は、生まれた時からうちの式やってん」
「生まれた時から、って」
「そやねん。天寧は西条の家に伝わる式神でな。物心ついた頃には、もう普通に喋ってくれとった。せやから、うちにとって解魂は"辿り着くもん"やのうて"最初からあったもん"やったんよ」
その言葉に、颯太は少しだけ驚いた。もも と天寧の間にある、あの自然な通じ合いには、そんな背景があったのか。
「颯太くんと神鳴は、これから自分たちで積み上げていくんやろな。それはそれで、うちにはない羨ましい過程やと思うで」
もも の声には、からかいではない確かな優しさがあった。
「まあ、任しとき。財前さんや澪さんほど怖くはせぇへんから」
その言葉に、思わず苦笑が漏れた。この人なりの気遣いなのかもしれない。
覚悟を決めて頷いた。
高尾山の空気に、これまでとは違う、軽やかで、それでいて容赦のない緊張感が満ちていった。




