第32話「天啓」
「――颯太、今日から特別だ。八咫烏が来る」
高尾山の参道、澪がそう切り出した。
「え?」
「八咫烏の1人、陣内さん。財前の紹介だ」
颯太が問い返す前に、木々の合間から、気だるげな足音が聞こえてきた。
現れたのは、無精髭を生やした、くたびれた雰囲気の男だった。天然パーマの黒髪、目の下には、濃いクマ。着崩したスーツ姿は、哀愁すら感じる。
思わず、拍子抜けした。
この人が、八咫烏。
「――ああ、悪い、遅れた」
男は、あくび混じりに、片手を上げた。
「陣内正臣だ。よろしくな、えーと、名前なんだっけ」
「颯太、です。よろしくお願いします」
陣内は、煙草を咥えながら、颯太を、じろりと一瞥した。
「――財前の野郎、俺を釣りやがってよぉ。酒奢るとか言って、高けぇキャバクラを期待してたのに、いつものスナックで散々飲まされて……安請け合いしちまった」
「……それが理由、ですか」
「他に理由がいるか?」
陣内は、けろりとした顔で言った。澪が呆れたようにため息をつく。
「陣内さんは彼岸の構成員の中で氷雪系最強だ。今日は、お前の直感に、別の角度から向き合ってもらう」
「直感、って」
「熱を扱うことばかり、覚えたんだろ」
陣内が、煙草の煙を、長く吐き出しながら言った。
「熱があるなら、冷たさもある。両方知らなきゃ、片手落ちだ」
頷いた。だが、目の前の男が、本当に最高位の術者なのか、正直、まだ半信半疑だった。
「あの、本当に、大丈夫なんですか。その……」
「おい青年、失礼だろ」
陣内が、気だるげに、こちらを睨む。だが、怒っているというより、面倒くさがっているだけのようだった。
「見た目で判断すんな、っての。まあ、無理もねぇけどな」
「――んじゃ、軽くやるか」
陣内は、気だるげに、煙草を指で挟んだまま、颯太の方へ向き直った。
「見とけよ、青年」
その瞬間、空気が、変わった。
陣内の目つきが、鋭くなる。くたびれた雰囲気が、一瞬で消え失せた。
「――悪いな。今日は、少し寒くなる」
吐く息が、白く染まった。
周囲の木々に、みるみる霜が降りていく。地面が、音もなく凍りついていく。風が、ぴたりと止んだ。
「――なっ」
言葉を失った。
空を見上げる。厚い雲が、渦を巻きながら集まってくる。まるで、東京の空そのものが、この一人の男の意志に従っているかのようだった。空気の匂いすら、鉄のように冷たく澄んでいた。
「これくらいで驚くな、青年。まだ、序の口だ」
陣内の声は、変わらず気だるげだった。だが、その落差が、かえって底知れない恐怖を感じさせた。
澪が耳元で、静かに囁いた。
「――言っただろ。氷雪系最強だ」
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「青年、これからお前自身の直感力を更に伸ばす。知ってるか? その直感の名前は天啓っていうんだぜ」
周囲が、完全な白に染まった頃、陣内は、指を軽く鳴らした。
「太夫〜、夕花太夫〜」
吹雪の中、艶やかな着物姿の女性が、ふわりと現れた。花魁の髪飾り、白い肌。輪郭が、雪そのものでできているかのように、儚く揺れている。
「――あら、正さん。ようやっと、お呼びでありんすか。わっち、もう忘れられてしまいんしたのではないかと思うておりんしたえ」
「会いたかったさ〜、ただ金欠でな。すまん」
陣内は、なぜか、自分の式に謝っていた。
言葉を交わすでもなく、二人の間には、何か、颯太にはまだ分からない、確かな通じ合いがあるように見えた。声に出す前から、互いの意図が伝わっているような、そんな間合いだった。
夕花は、長い睫毛の下、妖艶な目で、颯太を捉える。
「あら、まあ。随分と可愛らしい坊吉でありんすなぁ。正さん、また新しいお弟子を迎え入れられたのでありんすか?」
「口説くのはナシだぞ、夕花」
「わっちが口説くだなんて、そないな野暮なことはおよしなんし」
夕花は、袖で口元を隠しながら、くすくすと笑った。だが、颯太に向けた視線には、確かな値踏みの色があった。
「お前さん、わちきが、ちっとばかり、遊んで差し上げんすわ」
「――遊ぶ、って」
答える間もなく、夕花の姿が、吹雪の中に溶けるように消えた。
「夕花は、姿を消して、周囲の"冷たさ"に紛れる。目で追うな、気配だけで捉えろ。青年、Don't Think Just Feelだ」
妙に決めた顔で何かのセリフめいた言葉だったが、颯太には、まるで見当がつかなかった。だが、聞き返す余裕もなかった。
陣内の声が、白い闇の向こうから響く。
目を閉じた。だが、辺り一面が凍えるような冷気に包まれ、これまでの"熱"を頼りにした感覚が、まるで機能しない。頬に張り付く冷たさが、意識そのものを、鈍らせていくようだった。
「――冷たさの中でも、熱はある。お前自身の、内側の熱だ。それを頼りに、外の異変を探せ」
陣内の声に従い、意識を、体の内側の熱――目の奥の疼きへと集中させる。
微かに、違和感があった。右手側、僅かに空気の密度が変わっている。
「――そこ、ですか」
右へ跳んだ。
直後、颯太が立っていた場所に、鋭い氷の礫が突き刺さる。
「あら、躱されてしまいんした」
夕花が、悪戯っぽく笑いながら、再び姿を現した。
「坊や、筋がよいでありんす。正さんの弟子にしては上出来でありんすなぁ」
「――弟子じゃねえよ」
陣内が、面倒くさそうに、煙草の灰を落とした。
荒い息を整えながら、確かな手応えを感じていた。冷たさの中でも、自分の熱を見失わなければ、何かを掴める。
「もう一本、行くぞ」
陣内の声に、頷いた。
「次は、目、開けたままでもやってみろ。目と気配、両方使えるようになった方が早い」
「――分かりました」
吹雪は、日が傾くまで、止まなかった。何度倒れても、颯太は、そのたびに立ち上がり続けた。




