第31話「研鑚の時」
朝から降り続く雨は、高尾山の麓に着く頃には土砂降りに変わっていた。
ケーブルカー乗り場に行列はない。観光客の姿は一人もなかった。当然だ、こんな日に、わざわざ山に登る物好きはいない。
雨具を纏っていても、容赦なく吹きつける風が隙間から冷気を送り込んでくる。
「――ちょうどいい」
澪が雨具のフードを深く被りながら、そう呟いた。
「誰にも邪魔されない。今日は、とことんやる」
「なるほど、正直、こんな日に……って思ってました」
「こんな日だからこそ、だ」
澪の声には迷いがなかった。
雨に打たれながら頷いた。
参道は既に川のようになっていた。石段を伝う水が足元で渦を巻いている。傘は最初から持ってきていない。両手を塞ぐ余裕はなかった。
常盤の結界の中心、あの祠に着く頃には、颯太の全身は芯まで冷え切っていた。
「まず、これまでの復習だ。漏れを抑えろ」
「この状態で、ですか」
「だからだ」
澪の声が雨音に負けないよう、僅かに大きくなる。
「晴れた日に静かな場所で制御できるだけじゃ意味がない。本番の敵は天気なんか選んでくれない」
息を呑んだ。それも、そうだ。強くなりに来たんだから。
目を閉じる。だが、雨が顔に打ちつける感覚が集中を乱す。冷たさが思考を鈍らせる。
「――甘い」
澪の声が容赦なく飛んだ。
「逆境で制御できないなら、それはまだお前のものになってない」
歯を食いしばった。もう一度、目を閉じる。
雨音を意識の外に押し出す。肌に触れる雨粒の冷たさを単なる情報として処理する。目の奥の熱だけに意識を絞っていく。
少しずつ周囲の音が遠くなっていくのが分かった。
「――そうだ。その感覚を、覚えておけ」
澪の声に、初めて僅かな満足の色が混じった。
だが休む間もなかった。
「神鳴を出せ」
颯太の影から狼が飛び出す。全身から雷光が迸る。雨粒が、その周囲だけ弾けるように蒸発した。
「今度は動きながらやる。神鳴の攻撃を目を閉じたまま躱せ」
「――は?」
「聞こえなかったか」
答える間もなく、神鳴は颯太へ向け地を蹴った。
咄嗟に目を閉じる。圧の重さと間合いだけを感じ取ろうとする。だが、雨の音が、その感覚を容赦なく掻き乱してくる。
躱しきれなかった。神鳴の爪が二の腕を掠める。浅い痛みが走る。
「集中を切らすな!」
澪の声が飛ぶ。痛みを噛み殺しながら、再び目を閉じた。
何度も何度も。神鳴の攻撃を躱し続ける。何度も躱しきれずに、雨で濡れた地面に転がる。
時間の感覚が次第に曖昧になっていった。冷たさも痛みも疲労も、全部が一つに溶け合っていく。
膝が何度も笑う。倒れそうになるたび、脳裏に、あの河川敷の景色が過ぎった。
美咲の腕を掴めなかった、あの瞬間。
同じ後悔を、もう二度と繰り返したくない。
それだけを支えに、颯太は立ち続けた。
――何度目かの攻撃を、初めて完全に読み切った。
神鳴の爪が紙一重で颯太の頬の横を通り過ぎる。
「――見えた」
澪の声が雨の中、はっきりと届いた。
「悪くない」
雨に濡れた前髪の下から澪を見た。息が上がっている。
だが体の奥に確かな手応えがあった。
「まだ、いけます。今ここでものにしないと」
「――ほう」
澪の口元に雨粒に濡れた微かな笑みが浮かんだ。
「なら、次は術式だ」
澪は懐から、あの符を取り出した。雨に濡れないよう片手で覆いながら。
「今のお前は簡略詠唱と名付け以外、まともに使えない」
「――多摩川に行くなら、それじゃ足りない、ってことですか」
「足りないどころじゃない。丸腰も同然だ」
澪は地面に指先で図を描いた。雨で、すぐに流れて消えてしまうが構わず続ける。
「常盤の術式は大きく分けて三つ。式となるものへ名付けをして縛る。その式へ力を貸し与え自在に操る。そして――結界を張る」
「結界」
「攻めるだけが術者の仕事じゃない。守れなきゃ話にならない」
澪は颯太の手を取り、指の形を一つずつ直していく。
「印はこう。息は吐きながらゆっくりと」
言われるがまま印を組んだ。冷えた指先が思うように動かない。
「――簡易結界。まずは、これだけでいい」
澪の唱える言葉を必死に耳で追った。
「陰陽和合、五行相生。一線」
同じ言葉を口の中で繰り返す。何度も何度も。雨に打たれながら。
最初は何も起きなかった。だが十数回目、颯太の周囲に薄い膜のようなものが一瞬だけ確かに揺らめいた。
「――今の」
「見えた」
澪は頷きながらも油断のない目で続けた。
「だが、見えただけじゃ結界とは呼べない。本当に守れるか、試す」
「――え」
颯太が問い返す前に、澪の拳が唸りを上げて迫っていた。
反射的に、もう一度同じ言葉を叫ぶ。
「陰陽和合、五行相生! 一線」
薄い膜が拳を受け止める。パンッ、と乾いた音が響いた。
膜は一撃で霧散した。だが拳は颯太の体に届かなかった。
「――っ」
颯太は、その場に膝をつく。全身から力が抜けていく。だが確かに守り切った。
「今ので限界だな。実戦で使うには、まだ何度も練り込む必要がある」
澪はそう言いながらも、颯太を見る目に僅かな手応えが滲んでいた。
「体で覚えたことと術式。両方揃って初めて一人前だ。多摩川に行くまでに最低限は叩き込む」
「最低限、ってどれくらいですか」
「お前が自分の身を守れると、俺が納得できるまでだ」
容赦のない答えだった。それでも颯太は素直に頷くしかなかった。
雨に濡れた拳を強く握りしめた。
「――よろしくお願いします」
土砂降りの中、颯太たちの訓練は日が完全に暮れるまで続いた。




