第30話「確かな鼓動」
財前と鬼燈が帰った後も、颯太はしばらく澪の部屋のソファから動けなかった。
"彼岸"。"駒"。"討伐対象"。
頭の中で、その言葉が何度も反響していた。今まで自分がどれほど大きなものに無自覚のまま足を踏み入れていたのか、改めて思い知らされた気分だった。
「――颯太」
澪の声に顔を上げる。
「大丈夫か」
「……正直、まだ整理できてないです」
膝の上で拳を握ったり開いたりした。指先の感覚が、まだどこか遠い。今日聞いた言葉の重さが体の奥にじわじわと沈殿していくようだった。
「でも」
続きを口にする。
「怖いのは、彼岸に狙われることより。何もできないまま、誰かに決められることの方です」
澪が僅かに目を見開いた。
「――誰かに、って」
「美咲を救えなかった時も、そうでした。何もできなくて勝手に結果だけが決まった」
声が少しずつ熱を帯びていく。
「あの時と同じことを、また繰り返したくないんです。今度は俺自身の意志で動きたい」
右目に、そっと触れる。
「もう、あの感覚は嫌なんです」
影行が颯太の膝に、そっと頭を寄せてきた。慰めるような仕草だった。その温もりだけが今、確かに感じられるものだった。
澪はしばらく黙っていたが、やがて小さく息を吐いた。
「――なら、聞くが」
「はい」
「お前、何がしたい」
迷わなかった。
「多摩川に、行きたいです」
澪の表情が僅かに動いた。驚きとも、予感していたものが的中したような色とも取れる複雑な表情だった。
「玄一さんに言われました。高尾山で繋がりを断ち切る訓練をしてから、多摩川に立つ資格ができる、って」
「――もう、その段階に来てると」
「分かりません。でも」
まっすぐ澪を見た。
「彼岸に見つかって勝手に処分されるくらいなら。俺は俺の意志で、あそこに立ちたい」
「――随分と、思い切ったこと言うな」
「今日、財前さんの話を聞いて、はっきりしました。待ってても何も変わらない」
澪は颯太の顔をじっと見つめた。何かを見定めるような、そんな視線だった。
「本当に、覚悟はできてるのか」
「正直、まだ怖いです。でも、覚悟はしてます」
自分の力の始まりの場所。凪という存在の本当の正体。そして――凪と直接向き合う日。
その全てが今、初めて颯太自身の意志として輪郭を持ち始めていた。
澪は颯太を、しばらく見つめていた。
「――お前も、大概、無茶を言う」
「澪さんに似たんだと思います」
「減らず口叩くようになったな」
澪の口元に微かな笑みが浮かんだ。だが、その目の奥には隠しきれない懸念の色もあった。
「本気なんだな」
「はい」
「危険は、承知の上か」
「承知してるつもりです。でも、これ以上、何も知らないままでいる方が、もっと怖いです」
澪はしばらく沈黙した後、小さく頷いた。窓の外を見つめる横顔に、何か遠い記憶を辿るような影があった。
「――いいだろう。まずは高尾山だな、次はもっと本格的にやる。それが終わったら多摩川だ」
深く頷いた。
胸の奥の灯が静かに、しかし確かに燃え始めていた。
心臓の鼓動は少しずつ強く、高鳴っていく感覚を感じていた。
「ありがとうございます」
「礼はいい。その代わり、俺の指示には絶対に従え。今回ばかりは我儘は許さない」
「――分かりました」
澪は缶ビールの残りを一気に飲み干した。それから少し疲れたようにソファの背もたれに体重を預けた。
「――颯太」
「はい」
「一つだけ、聞いてもいいか」
「なんですか」
「多摩川で凪に会って。もし、あいつが"美咲を助けたければ自分の全てを差し出せ"みたいなことを言ってきたら、お前はどうする」
思いがけない問いだった。すぐには答えが出てこなかった。
「……分かりません。正直、今は」
「そうか」
澪はそれ以上追及しなかった。ただ静かに颯太の顔を見つめていた。
「一つだけ、覚えておけ。お前がお前自身を差し出して、それで美咲が喜ぶと思うか」
その一言が、胸の奥に深く突き刺さった。単純な問いのはずなのに、答えが簡単には出てこなかった。
答えられなかった。ただ、その問いだけが長く颯太の中に残り続けた。
美咲を救いたいという願い。彼岸という脅威。そして、颯太自身が何者なのかという根源的な問い。
その全てが多摩川という一つの場所へと収束していく予感があった。
窓の外、夜が静かに更けていく。影行が颯太の膝の上で丸くなって眠り始めていた。その小さな寝息だけが部屋の中に規則正しく響いていた。
澪が静かに立ち上がる。
「今夜は、もう休め。明日から忙しくなる」
「はい」
颯太は影行を、そっと抱き上げた。温かく柔らかい重みが腕の中にあった。
部屋を出る間際、もう一度、澪を振り返った。
「――澪さん」
「なんだ」
「一緒に居てくれて、ありがとうございます。今日も、これからも」
澪は一瞬、驚いたような顔をした後、視線を逸らした。頬が僅かに赤らんで見えたのは気のせいだろうか。
「柄にもないこと、続けて言うな」
その声には、いつもの素っ気なさの中に確かな温かさが滲んでいた。




