第29話 「覚悟の灯」
公務員ヤクザという強烈なインパクトを財前が残してから一週間が経っていた。
あの日以来、颯太の中で"彼岸"という言葉が、ずっと重く居座り続けていた。誰かに話したくても話せる相手がいるわけもなく。結局、答えの出ないまま日々をやり過ごしていた。
そんな折、澪から短い連絡が来た。「財前が、また来るらしい。今度は、ちゃんと話すつもりみたいだ」――その一文だけで颯太は覚悟を決めて向かうしかなかった。
既に、澪のアパートに財前が到着しているのを、颯太は何となく感じ取ってしまい、おそるおそるベルを鳴らした。
「まあ、座んなさいや。突っ立ったままじゃ話しにくい」
財前は勝手に澪の部屋のソファに腰を下ろすと、颯太にも隣を促した。澪は諦めたようにキッチンからビールを持ってくる。
「未成年だ、颯太は」
「知ってるよ、こいつはお茶だお茶」
財前は豪快に笑いながらビールに手を伸ばした。
「今日は、ちゃんと話す気になったんですか」
「気が変わった。ちゃんと話しといた方がいいと思ってな」
財前はあっさりとそう言った。前回の訪問とは明らかに雰囲気が違う。
困惑する颯太の表情を察したように財前が続けた。
「――で、何から聞きたい。彼岸のことか、それとも、お前自身のことか」
颯太はドキっとした胸の鼓動を誤魔化しながら口を開いた。
「彼岸って、結局、何なんですか。妖を管理する組織、としか」
「単純だよ。この世には時折、収拾つかねぇもんが生まれる。もう知ってんな。それを放っておけないから始末をつける。それだけの話だ」
「昔から、そうなんですか」
「ああ。何百年も前からな。人間の歴史の裏で、ずっと」
財前の声には珍しく重みがあった。
「始末、って」
「封印したり、祓ったり、時には……まあ、色々だ」
財前はビールを一気に呷った。喉仏が大きく上下する。
「ただ、俺たちがやってることは表には出ない。出したら普通に生きてる人間の常識がひっくり返っちまう。世間さまは大混乱だ」
鬼燈が静かに補足する。
「人は、見えないものに怖れを抱きます。だからこそ秘匿されるべき闇で、私たちは働いております」
「――だから、なんだ、俺たちは、ネッシーみたいなもんだ」
財前が自嘲気味に笑った。その笑い方には、どこか割り切れない哀愁が滲んでいた。
「ネッシー、って」
「有名だろ。いわゆる都市伝説ってやつだよ。俺たちも、そういうもんだ」
深呼吸してから一番聞きたかったことを口にした。
「俺は、その組織にとって、何なんですか」
財前の目が僅かに細まる。
「――正直に言うぜ」
「はい」
「お前は、"どっちにも転びうる駒"だ」
颯太の心臓が重く鳴った。喉の奥が一瞬で干上がったような感覚があった。
「駒、って言うと、まるで」
「自分の意志がない、みたいに聞こえるか」
財前は颯太の内心を見透かしたように、そう言った。
「悪い、そういう意味じゃねえ。ただ、彼岸側の見方としちゃ、そうなる、ってだけだ」
「常盤の本家筋。しかも、目に、あの凪の力を宿してる。使い方次第じゃ彼岸にとってこれ以上ない戦力になる。だが逆に――」
財前の声が一段低くなる。
「制御を誤りゃ、お前自身が"討伐対象"になる」
空気が重く沈んだ。喉の奥が、からからに乾いていく。今、この部屋の温度が数度下がったような錯覚さえあった。
「討伐対象、って」
「言葉のまんまだよ。彼岸は慈善事業じゃねえ。危険と判断されたもんは容赦なく始末する」
「俺が、そうなるかもしれない、ってことですよね」
「今すぐじゃねえ。だが、可能性としちゃ、ある」
財前ははっきりと、そう言い切った。誤魔化す気は最初からないようだった。
拳を無意識に握りしめていた。爪が掌に食い込む感触があった。
澪が颯太の肩に、そっと手を置いた。
「――だから、隠してた」
その声には、これまで聞いたことのない静かな覚悟が滲んでいた。
「本部に見つかれば、お前がどっちに転ぶか、あいつらが勝手に判断する。それだけは、させたくなかった」
その言葉の裏にある澪自身の覚悟の重さを、颯太は改めて噛み締めた。
財前が缶を置いて颯太を見据えた。
「澪の気持ちは分かる。だが、小僧。もう時間の問題だ。隠しきれる段階は、とっくに過ぎてる」
その言葉に、澪が僅かに唇を噛んだ。分かっていても認めたくない、そんな表情だった。
「――俺は、どうすればいいんですか」
財前はしばらく黙った後、ニヤリと笑った。
「簡単だ。漢なら強くなれ。誰にも文句を言わせねえくらい、な」
その笑顔は豪快でありながら、確かな真剣さを孕んでいた。
「強くなる、って、具体的には」
「まずは自分の力を、ちゃんと使いこなせるようになることだ。それだけでも大分違う」
「彼岸に"駒"として扱われたくなきゃ、"駒"じゃいられねぇ強さを示すしかねぇ。そういう世界だ」
その言葉を静かに噛み締めた。
単純に、男として情けない自分自身。澪に、ただ何も知らずに守られてきた、これまでの日々を恥ずかしく感じた瞬間、胸の奥に小さな火が灯るような感覚を覚えた。
美咲を救いたいという願いも、この力を制御することも、全部が、もう後戻りできない場所まで来ている。そのことを改めて突きつけられていた。
「――澪さん」
思ったより大きい声が出た。
「なんだ」
「今まで、隠しててくれて、ありがとうございます」
澪は一瞬、驚いたような顔をした後、視線を逸らした。
「礼を言われるようなことじゃない」
「それでも、言わせてください」
澪はそれ以上何も言わず、ただ小さく頷いた。
財前が、その様子を黙って見ていた。何も言わないまま缶ビールを静かに飲み干す。空になった缶を、そっとテーブルに置くその仕草には、いつもの豪快さとは違う妙な静けさがあった。




