第28話「公務員ヤクザ」
颯太が澪の部屋に着いた時、既に廊下の空気が、いつもと違っていた。
煙草の匂い。それも上等な葉巻に近い独特の香り。
「――澪、いるか!」
ドアを叩く音は、ノックというより殴打に近かった。
澪がうんざりした顔でドアを開ける。
「うるさい。近所迷惑だ」
「近所迷惑? 上等じゃねえか。文句言う奴がいりゃ、"妹の兄です"ってな、この面でご挨拶してやるよ」
澪の眉間に深い皺が寄った。
「やめろ。殺すぞ」
「つれねぇなぁ、澪」
ドアの向こうに立っていたのは、颯太が今まで見たことのない類の人間だった。
二メートル近い上背。ワインレッドの仕立てのいいスーツに深く胸元を開けた姿。引き締まった胸筋の合間から刺青がちらりと覗いている。
思わず息を呑んだ。強烈な存在感が玄関先の狭い空間を一瞬で塗り替えていた。廊下の空気そのものが、この男を中心に渦を巻いているような錯覚さえあった。
男は颯太に気づくと、値踏みするような視線を隅から隅まで這わせた。
「――ほう」
低い声に何か得体の知れない圧が滲んだ。
「お前が、噂の小僧か」
「颯太、こいつは財前。まあ、見たまんま、ヤクザだ」
澪が面倒くさそうに紹介する。その口調には、慣れきった諦めのようなものが滲んでいた。
「澪、何度も言ってんだろが。公務員ヤクザだ」
財前は豪快に笑いながら颯太の肩を、痛いくらいの力で叩いた。
「財前真弥だ。よろしくな、小僧。――俺は公務員ヤクザだ。覚えとけ」
「……公務員、ヤクザ?」
「そのまんまの意味だよ。表は極道、裏は国家公務員。かっこいいだろ」
豪快に笑う財前の後ろ、影のように、もう一つの気配があった。
颯太が視線を動かすと、そこに絹のような銀髪を持つ静かな女性が立っていた。白い肌、鮮やかな着物。まるで昔のお姫様のような気品が漂っている。空気が、その一角だけ僅かに冷たく澄んでいるようにさえ感じられた。
彼女が纏う空気には、財前とはまた違う種類の"格"があった。静けさの中に揺るぎない何かが宿っている、そんな印象だった。
「――真弥様、お戯れもそろそろ」
声は涼やかで、それでいて芯の通った響きだった。
「うるせぇ鬼燈、久しぶりの妹なんだ、多少ははしゃぐだろうが」
「妹、って」
颯太が思わず問うと、澪は間髪入れずに答えた。
「妹ではない、腐れ縁だ」
財前は想定通りと言わんばかりに、少し憂いを帯びた笑みを浮かべた。
「常盤の本家筋、だろ。お前」
颯太の背筋が一瞬で強張った。
「知ってるん、ですか」
「澪がお前をわざわざ隠したんだ。彼岸じゃ、ちょっとした噂だぜ。忘れられてたはずの本家筋がひょっこり出てきた、ってな」
「噂に、なってるんですか」
「そりゃなるだろ。何百年も行方不明だった血筋が急に現れたんだからな」
財前の目つきが僅かに鋭くなった。豪快な笑みの奥に確かな観察の色があった。
「澪が匿ってたのも道理だな。お前、目、やべえもん抱えてる」
答えられなかった。ただ喉の奥が、じわじわと乾いていくのを感じていた。
澪が颯太と財前の間に割り込むように立つ。
「――何しに来た」
「決まってんだろ」
財前は笑みを消さないまま答えた。
「本部が動き出す前に、俺が先に見ておきたかっただけだ」
その一言だけで空気が一段重くなった。肌がぴりりと張り詰めるのを感じた。まるで見えない糸で四方を縛られたような感覚だった。
「本部が、颯太を?」
「隠しが緩んで揺らぎが二回も出りゃ、そりゃ気づく。時間の問題だった」
財前は颯太を、もう一度じっと見据えた。
「小僧。お前がどっち側になるか、まだ誰もわからねぇ。だが――」
声が僅かに低くなる。
「彼岸に目をつけられたら、逃げ場はねえぞ」
その言葉の重さを体の芯で受け止めた。指先が無意識に冷たくなっていくのが分かった。逃げ場がない、という一言が頭の中で何度も反響していた。
鬼燈が静かに財前の傍らに寄り添う。
「真弥様。今日のところは、それくらいで」
「ああ、分かってる」
財前は、また豪快に笑うと、颯太の肩を、もう一度叩いた。
「まあ、今すぐどうこうする気はねえよ。俺は俺の目で確かめに来ただけだ」
その笑顔の裏に、まだ底の見えない何かを感じていた。豪快さと恐ろしさが不思議なほど自然に同居している、そんな男だった。
「――で、確かめてみて、どうだったんですか」
思い切って尋ねた。財前は一瞬、意外そうな顔をした後、また笑った。目の奥に面白がるような光が宿っていた。
「度胸あるじゃねえか、小僧。気に入った」
「答えになってません」
「まあ、それは、追々分かる」
財前はそう言って、颯太の頭を乱暴に一撫でした。手のひらの大きさに思わず身が竦んだ。
「今日は、顔見に来ただけだ。じゃあな、澪」
「――もう来るな」
「そうはいかねえよ。可愛い妹分だからな」
澪の顔が露骨に嫌そうに歪んだ。だが、それ以上強く拒む様子はなかった。
軽口を叩きながら、財前は鬼燈を連れて去っていった。廊下に漂っていた葉巻の匂いだけが名残のように、しばらく残っていた。
二人の姿が完全に見えなくなるまで、颯太は、その場から動けなかった。




