第27話 「彼岸」
日差し柔らかく、空には雲一つない。
颯太は冬の晴れが一番好きだった。空気が澄んでいて、遠くの音まで、やけにはっきりと聞こえる。
ピンポーン。
澪のアパートを訪ねるのは初めてだった。
橋姫との戦いから三日。彼女はまだ本調子ではないと聞き、見舞いという名目で大学帰りに立ち寄っていた。
「勝手に来るな、と言っただろ」
玄関先で澪が呆れたように言う。だが、その手には颯太が持ってきた見舞いの品――スーパーの惣菜が既にしっかり収まっていた。
「差し入れです。それだけ渡したら帰ります」
「……上がれ。茶くらい出す」
素っ気ない口調だったが素直に従った。
部屋の中は意外にも生活感があった。棚には装飾品の代わりに、使い込まれた符の束と小さな道具箱が並んでいる。壁に飾られているのは絵画ではなく、古い地図と几帳面な文字で書き込まれたメモの数々だった。ベッドの脇には、いつでも動けるようにと言わんばかりに上着とブーツが揃えて置かれている。
畳んだ洗濯物の匂いと微かな線香の香りが部屋全体に漂っていた。意外なほど生活の温度が感じられる部屋だった。澪という人間の知らなかった一面を、また一つ垣間見た気がした。
ソファの隅、クッションの隙間から半分だけ顔を出した影行が、颯太を見て耳をぴくりと動かした。
「――久しぶり」
颯太が声をかけると、影行は迷うような素振りを見せた後、そろそろと近づいてきて颯太の膝に頭を乗せた。
「懐いてますね」
「……そうでもない」
澪はそう言いながらも、影行の頭を撫でる颯太を止めなかった。
湯呑みを二つテーブルに置く。緑茶の湯気混じりの香りがふわりと漂った。しばらく他愛のない会話が続いた。大学の講義のこと、颯太の肩の傷のこと。
ふと気になっていたことを口にした。
「そういえば、橋姫との夜、影行、あんまり見なかった気がします。梵天丸が出てきてから」
澪の手が湯呑みの上で僅かに止まった。
「……気づいたか」
「隠れてたんですか? 怖かった、とか」
軽い気持ちで聞いたつもりだった。だが澪の表情は思いのほか真剣だった。
影行が颯太の膝の上で身を縮めるようにした。
「――半分は、正解だ」
澪が湯呑みを両手で包みながら静かに言った。
「梵天丸みたいな、でたらめな力が動く時、影行は怖がって隠れる。こいつは戦闘向きの式じゃない」
「じゃあ、もう半分は」
澪はしばらく黙った後、颯太をまっすぐ見た。
「――影行の本当の役割、まだ話してなかったな」
姿勢を正した。
「影行は諜報型の式だ。情報収集、監視、それから――」
言葉を切る。
「颯太、お前の気配を外から隠す役目も持ってる」
「隠す、って」
「お前の力は目立ちすぎる。放っておけば、いずれ気づかれる」
喉の奥が急速に乾いていくのを感じた。
「誰に……ですか」
澪は一度、深く息を吐いた。
「――彼岸」
初めて聞く言葉だった。だが、その響きだけで何か途方もなく大きなものの気配を感じ取った。喉の奥が、また微かに強張った。
「俺が所属してる組織の名前だ。表向きには存在しない。妖を管理する国の裏側にある機関、とでも思っておけ」
「……澪さんは、その組織の人なんですか」
「所属してる。俺もお前の家系も元々そこの幹部筋だ」
言葉を失った。澪について、まだ何も知らなかったのだと改めて思い知らされる。この数ヶ月、隣で戦い続けてきた相手のことを、自分はほとんど理解していなかったのかもしれない。
「影行には、お前の気配を薄める役目を負わせてる。本来なら報告しなきゃいけないことを俺の独断で隠してる」
「――それって」
「組織的には背信行為だ」
澪はあっさりと言った。だが、その声には隠しきれない緊張があった。
「そんな大それたこと……なんで、俺のために」
「理由なんて、いちいち説明しない」
澪は視線を逸らしながら、そう答えた。
「梵天丸みたいな強い力を使うと隠しきれない"揺らぎ"が出る。今回の橋姫は正直ギリギリだった」
膝の上の影行を、そっと見た。小さな体を、さらに縮めている。まるで悪いことをしたと自覚しているかのように。
思わず微笑み、影行の頭を撫でた。
「……ありがとう」
影行が颯太を見上げる。丸い目が少しだけ安心したように緩んだ。
澪が、その様子を見て微かに口元を緩めた。
「――お前、そういうとこ、ずるいな」
「え?」
「何でもない」
澪は湯呑みに視線を戻した。だが颯太には、彼女が影行を見る目が、いつもより少しだけ優しく見えた。
それから数日後。
澪から短いメッセージが届いた。
「来客だ。変な奴が来る」
颯太が問い返す間もなく続けてもう一通。
「彼岸の人間だ。隠しがやはり緩んでたらしい」
画面を見つめたまま、しばらく動けなかった。とうとう来るべきものが来たのだと覚悟を決めるしかなかった。
スマートフォンを強く握りしめる。これまでの平穏な日常が、また一つ大きく揺らごうとしていた。それでも逃げるという選択肢は颯太の中に最初からなかった。




