第26話「殺意の名」
橋から少し離れた公園のベンチに澪を座らせた。
顔色は、まだ青白い。だが呼吸は少しずつ落ち着いてきていた。
颯太は自販機で買った温かい缶を澪の手に握らせる。指先が驚くほど冷え切っていた。
「……気を遣うな」
「気を遣ってるんじゃないです。ただの、お返しです」
澪は僅かに眉を上げたが、それ以上何も言わず缶を両手で包んだ。温かさが少しずつ彼女の指先に伝わっていくのが傍から見ていても分かった。
しばらく二人とも黙っていた。夜風が公園の木々を揺らす音だけが響いていた。脇腹の痛みが思い出したようにじくじくと主張してくる。
「――聞きたいこと、あるんだろ」
澪が先に口を開いた。
「梵天丸のこと、ですか」
「ああ」
少し迷ってから頷いた。
「あれは、何なんですか。影行とは、全然違う」
澪は缶を見つめたまま、しばらく答えなかった。長い沈黙だった。それだけで、この問いの重さが伝わってくる気がした。
「――俺自身の、殺意だ」
息が止まった。予想もしていなかった答えだった。
「弟を、自分の手で調伏した時。あの瞬間、俺の中に確かにあった。あいつを殺してでも止めたい、っていう衝動が」
声は静かだった。だが、そこに滲む重さは隠しようがなかった。
「その衝動が、いつの間にか独立した式になってた。梵天丸は外から連れてきた式じゃない。俺自身の一番醜い部分だ」
何も言えなかった。ただ澪の横顔を見つめる。街灯の光が彼女の疲れた表情を、いつもより淡く照らしていた。普段の彼女からは想像もつかない脆さが滲んでいる横顔だった。
「使うたびに削られる。自分の中の一番暗いところを引きずり出すようなものだから」
「……それでも、使うんですか」
「使わなきゃ死んでたのは俺たちだ」
澪の声に初めて僅かな苛立ちが滲んだ。図星を突かれた気分だった。それでも心配する気持ちは消えなかった。
「俺の都合で使ってるわけじゃない。使わざるを得ない時だけ呼び戻す。それが、こいつの役割だ」
俯いた。膝の上、拳を無意識に握りしめていた。
「……すみません」
「謝るな。ただ」
澪が颯太の方を見る。
「お前が、あいつに啖呵切った時。正直、驚いた」
「あれは……勝手に、体が動いただけで」
「知ってる。お前は、いつもそうだ」
澪の口元に微かな笑みが浮かんだ。呆れとも、それ以外の何かとも取れる複雑な表情だった。少なくとも颯太を責めている顔ではなかった。
「梵天丸が、お前に興味持ったのは初めてだ。あいつは基本的に誰にも興味を示さない。戦うか、喰うか、それだけの奴だから」
「それは……良いことなんですか」
「さあな。悪いことじゃないと思うが、油断だけはするな」
澪は缶のプルタブを開け一口飲んだ。喉が動く音が静かな公園にやけにはっきりと響いた。
「ただ、次会う時は今日みたいに庇うだけじゃ済まないかもしれない。あいつは興味を持った相手には遠慮しない」
その言葉の重さを静かに受け止めた。喉の奥が微かに苦くなる。
「――澪さん」
「なんだ」
「弟さんのこと、まだ話す気になれないなら、無理には聞きません。でも」
言葉を選びながら続けた。
「梵天丸を使うたびに澪さんが自分を痛めつけてるみたいに見えます。それが心配です」
言い終えてから少し気恥ずかしくなった。だが口にした言葉を取り消すつもりはなかった。
澪はしばらく颯太を見つめていた。その視線に、いつもの鋭さとは違う、何か柔らかいものが混じっていた。
夜風が、また木々を揺らす。
「――柄にもないこと言うな」
声は素っ気なかった。だが颯太を見る目は、いつもより僅かに柔らかかった。
「もう遅い。帰るぞ」
澪はベンチから立ち上がる。まだ足元が僅かに覚束なかった。颯太は思わず手を伸ばしかけて途中で止めた。彼女なら、きっとこの程度の手助けは拒むだろうと思ったからだった。
何も言わず、その隣に並んだ。
橋姫戦は終わった。だが澪が抱える"もう一つの顔"の重さは、颯太の中に静かに、しかし確かに刻み込まれていた。
夜道を歩きながら、颯太は缶を握る澪の手を時折横目で確認していた。まだ指先の冷たさは完全には戻っていないようだった。
「――颯太」
しばらく歩いたところで、澪が不意に口を開いた。
「はい」
「今日は、悪かったな。危ないところに巻き込んだ」
「巻き込まれたなんて、思ってません」
「思ってなくても事実だ」
澪の声には珍しく素直な響きがあった。夜風に、その声が僅かに掠れて聞こえた。
「お前がいなかったら、俺はあの場で終わってたかもしれない」
「それは、言い過ぎです」
「言い過ぎじゃない」
澪は足を止め、颯太をまっすぐ見た。
「借りは、ちゃんと返す。それが俺のやり方だ」
その一言に、颯太は何も言葉を返せなかった。ただ頷くことしかできなかった。
澪という人間の頑固なまでの筋の通し方が、なぜか少し眩しく感じられた。
二人は、また並んで歩き出した。夜の住宅街に二つの足音だけが静かに響いていた。




