第25話「橋姫の涙」
金色の炎が一斉に橋姫の周囲で渦を巻いた。
ゴォッ――風もないのに炎が唸る。
「誰にも、渡さない」
声と同時に、橋姫の姿が掻き消えた。
次の瞬間、澪の眼前に白い着物の裾が翻っていた。
「――ッ!?」
澪が咄嗟に印を組むが間に合わない。橋姫の爪が澪の肩を深く抉った。
「澪さん!」
颯太の声に、橋姫は一瞥もくれなかった。ただ澪だけを執拗に狙い続ける。
「邪魔、邪魔、邪魔――」
低い呟きが憎悪に満ちていた。まるで澪という存在そのものを憎んでいるかのように。
神鳴が飛び出し、橋姫の腕を弾く。ドンッ、と地を蹴る音。だが橋姫の狙いは変わらなかった。
澪が肩を押さえながら後退する。
「くそ……」
颯太の右目の奥、熱が暴れる。澪への攻撃は苛烈で容赦がない。だが、颯太自身に向けられた気配は――違った。
橋姫が颯太の方へ、ゆっくりと視線を移す。
纏う気配が変わった。刃のような殺意ではなく、もっと甘く絡みつくような何か。
「――ねえ、あなた」
声が耳元で囁くように聞こえた。実際の距離は遠いはずなのに。
「こっちへ、おいで」
橋姫の背後、川面が誘うように波打っている。
颯太の足が、意思とは関係なく一歩前へ出た。
「颯太、動くな!」
澪の声でハッとする。だが体は、まだ川の方へ僅かに傾いていた。
「一緒に、行きましょう。わたし、とっても上手なのよ」
甘い声が耳の奥に直接流れ込んでくるようだった。
奥歯を強く噛み締める。この感覚には覚えがあった。以前、産女に感情を揺さぶられた時と同じ種類の危うさ。
「――お前は」
声を絞り出す。
「ただの妖だろ」
その一言で空気が変わった。
橋姫の表情が大きく歪んだ。笑みでも悲しみでもない、剥き出しの憎悪。
「妖……? わたしを、そんな言葉一つで――」
声が耳障りな金切り声に変わっていく。
「わたしは! ずっと待っていたのに! 誰も、わたしを選んでくれなかった!」
金色の炎が一斉に燃え上がった。今までの比ではない荒れ狂うような勢い。
欄干が、ギシッ、ギシッと軋み始める。錆びた鉄が鎌のような刃へと形を変えていく。
「散れ!」
澪の合図で横に跳んだ。
直後、颯太が立っていた場所を鉄の刃が薙いだ。ガギィンッ――橋のコンクリートが大きく抉れる。
「くっ――」
影行が糸を放つ。橋姫の足元に絡みつくが、次の瞬間、糸ごと引きちぎられた。ブチブチッ、という嫌な音。
颯太の右目の奥で熱が更に暴れる。危険の方角が絶えず入れ替わる。読めない。
「颯太、左だ!」
澪の声。反応する前に脇腹に激しい衝撃が来た。
ドッ――鈍い音とともに颯太の体が宙に浮く。
地面に叩きつけられる直前、辛うじて受け身を取る。だが、脇腹に走った熱は鋭い痛みへと変わっていった。
「がっ……」
血の味が口の中に広がる。
「颯太!」
澪の悲鳴じみた声。だが颯太を助けに動けば彼女自身が無防備になる。三人がかりでも押されている。
震える手で地面を押し体を起こす。
視界の端、澪の表情が見えた。歯を食いしばり、何かを堪えている顔。
「――くそ」
澪の指先が震えながら首元へと伸びる。
「澪さん?」
「このままでは死ぬな。仕方ない……」
澪が指先を鋭く噛み切った。プツン、と皮膚が裂ける微かな音。血が地面に一滴、落ちる。
「――鎖を、解く」
その瞬間、澪の首筋から肩にかけての紋様が、これまで見たことのないほど強く赤く発光した。ジジ、と、まるで電流が走るような音さえした。
カラン、カラン、と、どこからともなく鎖の音が響く。宙で黒い鎖が解けていく。
鎖の先から人影が滲むように現れた。
白い肌に黒と紅の刺青。目元を布で覆った長身の男。着物が、はだけたまま夜風に揺れている。
男がゆっくりと顔を上げた。布の下から覗く口元が愉悦に歪んでいる。
「――呼んだか、澪」
声には隠しきれない愉悦があった。
「梵天丸。あの女、祓え。ただし、妖だけだぞ」
「ひゃは、命令上等じゃねぇか」
梵天丸は颯太を一瞥した。舐めるような視線だった。
「お前が澪の新しい"飼い犬"か。……しけた面だな」
答えられなかった。ただ本能が、その男から距離を取れと叫んでいた。神鳴でさえ、梵天丸に対して低く唸り続けている。
梵天丸が腰の刀――鬼哭丸を静かに抜いた。
シャラン、と鈴に似た澄んだ音が鳴った。
次の瞬間、彼の姿が消えた。
颯太が瞬きする間もなく、橋姫の腕が宙を舞っていた。
ドサリ。
悲鳴。橋姫が初めて明確な苦痛の声を上げる。
「――喰らわせろよ、もっと」
梵天丸の声が恍惚としていた。刀身に赤黒い血が滴る。刀が、その血を吸うように僅かに輝きを増した。
橋姫が必死に反撃を試みるが、梵天丸の速度は、それを容易く上回っていた。斬撃のたび、ズシャッ、ズシャッと肉を裂く音が重なる。彼の口から笑いに似た声が漏れた。
その光景から目を逸らせなかった。強い。だが、それ以上に恐ろしい。
これは颯太たちの味方なのか。それとも、もう一つの別の脅威なのか。
梵天丸が地に崩れ落ちた橋姫の前に立つ。刀を静かに振り上げた。
「――去ね、売女が」
吐き捨てるような一言と共に、刀が振り下ろされる。
その瞬間、橋姫の目元から一筋、光るものが伝った。
涙だった。
崩れゆく輪郭の中、彼女の表情は、もう憎悪ではなかった。ただ深い悲しみだけが、そこに残っていた。
颯太の胸の奥が締め付けられる。
妖にも感情がある。悲しみも痛みも確かにある。それを、颯太は今、初めてはっきりと思い知らされていた。
橋姫の輪郭が悲鳴とともに崩れていった。橋の軋みが止まり、水面が再び静かに凪ぐ。
静寂が戻る。
梵天丸が刀を鞘に収めながら振り返った。
「――もう、終わりか。物足りねぇな」
その視線が澪に向く。
澪は片膝をついていた。顔は青白く、額には脂汗が滲んでいる。首元の紋様は、まだ赤く光ったままだった。
「……鎖に、戻れ」
声が掠れていた。
梵天丸は動かなかった。ゆっくりと澪に近づいていく。
「なあ、澪」
しゃがみ込み、澪と目線を合わせる。
「今のお前、随分と弱ってる。……鎖、緩んでねぇか?」
「……黙れ」
「隙あらば喰ってやるって、前にも言ったよな。今、その"隙"に見えるんだけどな」
梵天丸の指先が澪の顎に伸びる。
「――やめろ」
気づけば叫んでいた。
脇腹の痛みも忘れ、澪と梵天丸の間に割り込むように立つ。
「弱ってる人間を、そうやって煽るのが、そんなに楽しいのか」
梵天丸が颯太を見下ろす。愉悦の色が僅かに変わった。興味、あるいは僅かな苛立ち。
「――お前、飼い犬のくせに、吠えるんだな」
「彼女は、お前を使うたびに何かを削ってる。それを分かっていて揶揄うのか」
颯太の声は震えていた。だが退く気はなかった。
梵天丸はしばらく颯太を見つめた後、喉の奥で低く笑った。
「――あはぁ、気に入った。次は、お前とやってみたいもんだ」
それだけ言うと、梵天丸の姿が鎖の中へと吸い込まれるように消えていった。首元の紋様の光も、ゆっくりと収まっていく。
崩れ落ちる澪を、慌てて支えた。
「……颯太」
「喋らなくていいです。今は」
澪の体は燃えるように熱かった。それでいて指先は氷のように冷たい。
彼女を抱えたまま、しばらく、その場から動けなかった。
脳裏に橋姫の最期の顔が繰り返し蘇る。
憎悪に歪んでいたはずのあの顔が、崩れる直前、ただ悲しげに静かに泣いていた。あの涙は演技でも幻でもなかった。
誰も、わたしを選んでくれなかった――橋姫の叫びが耳の奥に、まだこびりついていた。
これまで妖を"倒すべき相手"としてしか見てこなかった。だが橋姫は、最初から悪意だけの存在だったわけじゃない。誰かを待ち続け、待ちきれずに壊れてしまった一人の女性だった。
もし颯太自身が、あの夜、美咲を失った後、誰にも支えられずにいたら。同じように壊れていたのかもしれない。
その想像だけで、指先が微かに震えた。
妖を祓うということは単に化け物を退治することじゃない。かつて誰かだった何かの最後の輪郭を消し去ることでもある。
その重さを、颯太は今夜初めて骨身に刻み込まれた気がした。




