第24話 「名を持つ妖」
「立川の南、古い橋がある。そこで、五件」
澪が、スマートフォンの画面を颯太に見せる。ニュースの見出しが並んでいた。「転落死、いずれも橋の上で目撃情報なし」「橋の上で言い争う声、その後悲鳴」「行方不明の男性、橋の欄干に遺留品」――どれも、共通点は薄いようで、一つだけ揃っていた。恋人同士、あるいは夫婦。
「五件とも、カップルか、それに近い関係だ」
「偶然、じゃないですよね」
「橋一つに、五件は多すぎる」
澪は、画面をスクロールしながら、続けた。
「被害者全員、事件直前まで、普通に交際してた。喧嘩の記録もない」
「じゃあ、なんで」
「分からないから、行くんだろうが」
颯太の右目の奥が、じくりと疼いた。まだ橋にすら近づいていないのに。指先が、無意識に、小さく震えていた。
現地に着いたのは、日が完全に落ちてからだった。
古い、コンクリート製の橋。欄干は錆びつき、街灯は半分が切れている。川面は、油を流したように黒く、音を立てない。夜気に混じって、微かに、錆と苔の匂いがした。
橋の袂で、澪が足を止めた。
「――普通の橋だな」
「今のところは」
橋を渡る足取りは、二人とも慎重だった。コンクリートの継ぎ目を踏むたび、乾いた音が響く。
橋の中央で足を止めた。
――重たい視線。誰かに、見られている。
肌の表面が、ざわりと粟立つ。思わず振り返る。誰もいない。ただ、風もないのに、欄干に巻きついた蔦だけが、微かに揺れていた。まるで、何かが、そこに息を潜めているかのように。
「颯太、感じるか」
「……いる、と思います。でも、姿が見えない」
澪が、橋の欄干に触れる。指先が、何かに触れたように、僅かに止まった。
「――橋姫、か」
「橋姫?」
「妬み、恨み、独占欲。この手の橋には、大抵、そういう情念が染みついてる。橋姫、って呼ばれる類だ。恋人を待ち続けて、待ちきれず、橋を渡る恋人たちを妬んで、引きずり込む鬼だ」
澪の説明を聞きながら、颯太は、欄干に手を触れてみた。冷たいコンクリートの感触の奥に、何か、粘つくような気配が、確かにあった。
「人型で有名な妖の名前ってことは……」
「そうだ。堕ちた人間の成れの果てだ」
人柱、名を得た人ならざるもの――これまで、色々な人から聞かされてきた言葉が、脳裏を過ぎる。この川の底に、どれほど仄暗く、おぞましい憎悪が潜んでいるんだろうか。
「颯太、覚悟しとけ。噂に聞く妖なら、並の相手じゃない」
澪の声に、初めて明確な緊張が滲んでいた。その声色一つで、これから起きることの重大さが、否応なく伝わってきた。
「澪さんでも、緊張するんですね」
「――バカ言え。誰だってする」
澪は、そう言いながらも、視線は橋の先から一切離さなかった。その横顔に、いつもの余裕はなかった。
颯太が問い返そうとした、その時。
橋の向こう側、街灯が届かない暗がりから、耳障りの悪い、釘を打つ音が聞こえた。
カン、カン、カン、と、規則的に、何度も。
音のする方を見る。
白い着物の上に、朱色の羽織。頭には、鳥居を模したような、複雑な形の冠。長い黒髪が、風もないのに、ゆらゆらと揺れている。
その姿は、美しく、それでいて、どこか壊れているようだった。整いすぎた顔立ちの中、目だけが、異様に据わっていた。
その足元から、金色の炎とも煙ともつかないものが、幾筋も立ち上っていた。
全身の毛が、逆立つ感覚があった。今まで遭遇してきたどの妖とも、明らかに格が違う。喉の奥が、からからに渇いていく。呼吸すら、慎重にならざるを得なかった。
橋姫が、ゆっくりと、こちらを向いた。
目が合った――ように、感じた。表情は、笑っているようにも、泣いているようにも見えた。
「誰にも、渡さない」
声が、橋全体に、低く響いた。
その声には、怒りだけでなく、深い哀しみのようなものも滲んでいた。
右目の奥で、鋭い痛みが一気に膨れ上がる。今までのどの疼きよりも、鋭く、突き刺すようだった。
「澪さん、これ――」
「分かってる」
澪の声が、硬く強張っていた。
「今夜だけは、絶対に気を抜くな」
澪の言葉に、颯太は、静かに頷いた。返事の代わりに、拳を、強く握りしめる。
橋姫の足元、金色の炎が、一斉に大きく揺らめいた。炎の熱が、離れた場所にいても、頬に伝わってくる。
息を止めたまま、その場から動けなかった。手のひらに、じわりと汗が滲んでいく。
澪が静かに懐から符を取り出した。
「颯太、神鳴を出しとけ。合図で、一気に距離を詰める」
「分かりました」
符に力を込める。影から、神鳴が飛び出し、颯太の傍らで、低く唸った。青白い光が、その毛並みを伝う。呼応するように、颯太の右目の奥も、僅かに落ち着きを取り戻した。
橋姫の視線が、神鳴を捉えた。一瞬、その表情が、微かに歪んだように見えた。
「――番犬を連れてきたか」
嘲るような声だった。だが、その奥に、隠しきれない何かが、確かに滲んでいた。
「颯太、油断するな。喋る妖ほど、厄介なもんはない」
澪の忠告に頷く。喉の奥がまだ渇いたままだった。
橋姫が、一歩、こちらに近づいてくる。歩くたび、着物の裾が、金色の炎に揺れて、幻想的に、それでいて禍々しく光った。




