第23話「深まる疑念」
肩の傷痕に触れながら、颯太は鏡の前に立っていた。
完全には消えない。澪の応急処置のおかげで悪化はしなかったが、爪の痕は薄く皮膚に残っていた。
この傷を見るたび、あの夜の光景が蘇る。澪に守られながら対話を試みようとした自分の甘さ。慢心という言葉の意味を、身をもって思い知らされた。あの時、もう少しでも判断が遅れていたら、どうなっていたか。考えるだけで背筋が冷たくなる。
この一週間、あの産女の言葉が頭から離れなかった。
――あなたも、こっちに来る?
偶然の一言だとは、もう思えなかった。初めて会うはずの相手なのに、まるで昔から颯太を知っているかのような、あの馴れ馴れしさ。今まで遭遇してきた妖怪とは明らかに質が違う気がしてならない。
大学の講義中も上の空だった。ノートには聞いた話とは関係のない文字列ばかりが並んでいる。教授の声が遠くの雑音のようにしか届かない。
隣の席の友人が心配そうに顔を覗き込んできた。
「颯太、大丈夫か。最近、ずっとそんな感じだけど」
「……大丈夫。ちょっと、寝不足で」
もう何度目の嘘だろう。自分でも数えきれなくなっていた。嘘をつくたび、胸の奥が少しずつ重くなっていく気がした。
"誘われている"。
その一言が頭の中で繰り返し響いていた。
放課後、児童公園へ向かった。澪に確かめたいことがあった。
いつもの電柱の傍、澪が既に待っていた。
フードの中、影行が眠たげに顔を出している。
「話がある」
颯太が言うより先に、澪が口を開いた。
「――お前もか」
「気づいてたんですか」
「勘だけどな。初対面のはずなのに妙に馴れ馴れしかった。あの手の"知り合い気取り"は普通のバグには出せない。それに、あの目玉のなかった目の奥、何かに"見られてる"感じがした」
澪の声は、いつもより低く慎重だった。
「見られてる、って、誰にですか」
「それが分かれば苦労しない」
澪は苛立ちを隠さずにそう答えた。
「颯太、お前を狙って何かが仕掛けてきてる可能性がある。それも一体や二体の話じゃない」
颯太の心臓が重く鳴った。
「システムが、俺を?」
「システムそのものかは分からない。だが、少なくとも――お前をよく知る誰かが糸を引いてる気がする」
「よく知る誰か、って」
「それも、まだ分からない。ただの勘だ」
澪の歯切れの悪さが、かえって颯太の不安を煽った。
颯太の脳裏に、あの名前が過ぎる。
凪。
口には出さなかった。だが、澪も同じ名前を思い浮かべているのが、その表情から分かった。
もし、産女の背後に、あの存在がいるのだとしたら。颯太が、ただ狙われているだけでなく意図的に導かれているのだとしたら。その考えに至った瞬間、背筋が冷たくなった。まるで遠くから、じっと見つめられているような、そんな感覚があった。
「――澪さんも、同じこと考えてますよね」
「さあな」
はぐらかすような返事だったが、その目は明らかに動揺していた。
「隠さないでください。俺は、当事者です」
「――だから、なおさら、迂闊に口にできない」
澪の声に珍しく迷いが滲んでいた。まるで口にした瞬間、それが確定してしまうのを恐れているかのように。
「これからは、単独行動は一切禁止だ。分かったな」
「――はい」
素直に頷いた。今回ばかりは反論の余地がなかった。
「大学も、バイトも、一人で移動する時は必ず連絡しろ。何かあれば、すぐに符を使え」
「監視されてるみたいですね」
「監視じゃない。心配してるんだよ」
その一言に、颯太は思わず澪の顔を見た。彼女は少し気まずそうに視線を逸らした。日頃の素っ気なさからは想像もつかない一瞬だった。
「それと」
澪が颯太をまっすぐ見据える。
「次に何かが来た時、絶対に妖の言葉に耳を貸すな。あいつらはお前の一番柔らかい場所を正確に狙ってくる」
「分かってます。今度こそ」
「分かってる、で済むなら苦労しない」
澪の声が僅かに尖った。
「お前は優しい。それは悪いことじゃない。だが、その優しさが今、一番狙われてる弱点だ」
図星だった。何も言い返せなかった。優しさを弱点だと言われたのは初めてだった。
肩の傷に無意識に手をやった。
「――肝に銘じます」
「言葉だけじゃなく行動で示せ。この前みたいなことがあったら、次は俺も庇いきれない」
厳しい一言だった。だが、その奥に隠しきれない心配が滲んでいるのが分かった。
沈黙がしばらく続いた。夜風が公園の遊具を微かに軋ませている。
澪は小さく頷くと、視線を夜空に向けた。
「厄介なことになってきたな」
その呟きに、颯太も同じ不安を抱えたまま言葉を返せずにいた。
風が二人の間を静かに吹き抜けていった。
影行がフードの中から颯太をじっと見つめていた。いつもの眠たげな様子ではなく、何かを見透かすような静かな目だった。
「――影行も、心配してくれてるんですかね」
「さあな。式は、意外と主人に似るもんだ」
その言葉に、颯太は小さく笑った。今日、初めての笑みだった。
張り詰めていた空気が少しだけ緩む。それでも頭の片隅には、まだあの名前が静かに居座り続けていた。




