第22話 「産女の誘い」
「昨夜、三人目が消えた」
澪の声には、いつもの余裕がなかった。
「三人目、ですか。手がかりは」
「ない。だから、ここに来た」
二人は、もう現場にいた。都営住宅の一角、封鎖されたベランダの下。規制線のテープが風もないのに小さく震えている。
颯太の右目の奥、あの不快な疼きが一段強くなった。
地面に小さな靴が片方だけ落ちていた。誰も拾おうとしていない。
「颯太、感じるか」
「――上です」
声が勝手に出た。四階、明かりの消えた部屋のベランダに、何かがいた。
白い産着のようなものを纏った影。長い髪が力なく垂れ下がっている。両腕に何かを抱えている。
颯太の全身から血の気が引いた。
それは赤子だった。だが動かない。とうに事切れているのが分かった。
「――ッ」
思わず息を呑む。澪の表情も強張っていた。
影がこちらに気づいた。ゆっくりと顔を上げる。
目がない。眼窩には、ただ黒い穴があるだけだった。それでも颯太たちを"見て"いるのが分かった。
「返して」
声が響く。子供のように高く、同時に老婆のように掠れていた。
「――返して、返して、返して」
それは、抱えていた赤子を颯太に向かって突き出すような仕草をした。
颯太の脳裏に、唐突に何かが割り込んでくる。
あの夜。記憶にないはずの、あの夜の気配だけが蘇る。
守れなかった。それだけは確かだった。
目の奥の熱が痛みに変わる。
「颯太、動くな! こいつは今までと格が違う」
澪の声が響いた瞬間、その異形はベランダから飛び降りた。
落下の衝撃はない。輪郭が影のように滲みながら地に降り立つ。
颯太の目の前で、異形の腕――赤子を抱えていたはずの腕が鋭い爪を持つ何かに変わった。
「颯太くん」
名前を呼ばれた。颯太の名前ではなく、確かに颯太くん、と。
全身が粟立つ。
「あなたも、守れなかったのね」
その声は颯太の中の一番柔らかい場所を正確に抉ってきた。
「颯太! こいつは産女だ!」
澪の怒鳴り声で、ようやく我に返る。爪が目の前まで迫っていた。
考えるより先に体が動いた。神鳴が颯太の影から飛び出し、異形の腕を弾き返す。雷光が瞬き、辺りが一瞬白く染まった。
産女が悲鳴じみた声を上げる。だが消えない。むしろ輪郭がさらに膨れ上がっていく。
颯太は荒い息のまま産女を見据えた。
「産女って、妊婦が死んで妖怪になるやつですよね」
「厄介だ……こいつは狡猾だ」
澪が舌打ちする。
目のない顔。それでも、そこに確かな悲しみがあるのが分かった。
この妖怪は単なる化け物じゃない。かつて誰かを守りたかった一人の母親だった。
颯太の中で何かが軋む。
倒すべきなのか。それとも――
答えの出ないまま、産女が再び颯太たちに向かって突進してきた。
「颯太、下がって俺が――」
澪の声を最後まで聞かなかった。
これまでの数週間が颯太の中で根拠のない自信を作っていた。天狗の試練を乗り越えた。単独で妖怪を退けた。神鳴という前衛もいる。今の自分なら、この悲しみを抱えた妖怪を力ずくではなく対話で止められるかもしれない。
そんな考えが一瞬、頭をよぎった。
神鳴を止め、産女に向かって一歩踏み込んだ。
「待ってくれ。あなたの子供は、もう――」
言い終わる前に爪が振るわれた。
躱しきれなかった。左肩に焼けるような痛みが走る。
「颯太!」
澪の悲鳴じみた声。地面に叩きつけられた。
視界が白く霞む。
産女が颯太に覆い被さるように影を伸ばしてくる。
「あなたも、こっちに来る?」
声が耳元で囁く。優しく、それでいて底知れない飢えを孕んだ声だった。
颯太の意識が遠のきかける。
その時、雷鳴のような遠吠えが夜を切り裂いた。
神鳴が颯太に伸びる影に、真正面から体当たりする。電流が迸り、産女の輪郭が大きく弾け飛んだ。
同時に澪が颯太の腕を掴み、強引に引き起こす。
「馬鹿か、お前は。手加減できる相手だと、誰が言った」
声に明確な怒りがあった。
肩の痛みに顔を歪めながら、何も言い返せなかった。
その通りだった。慣れてきた自分に根拠のない自信を持ちすぎていた。
澪が印を組み直す。今度は迷いのない、正確な所作だった。影行が颯太の代わりに前へ出る。
「今度こそ、黙って見てろ」
頷くしかなかった。
澪の術が産女の輪郭を、じわじわと縛り上げていく。悲鳴が次第に小さくなっていった。
やがて産女は闇の中へ溶けるように消えていった。
静寂が戻る。
地面に座り込んだまま肩を押さえていた。血が指の間から滲んでいる。
「――すみません」
「謝るのは後だ。まず、その傷、診せろ」
澪は颯太の肩に触れながら小さく息を吐いた。
「力がついてきたのは事実だ。だが、力がつくたびに勘違いする奴が一番危ない。今日みたいにな」
俯いたまま、その言葉を噛み締めた。
自信はいつの間にか慢心に変わっていた。境目に気づけなかった。
三日後、肩の傷はまだ完全には塞がっていなかったが、日常には支障のない程度まで回復していた。
大学からの帰り道、颯太はスマートフォンでニュースを確認する。産女の事件は"迷宮入り"として報道が収束しつつあった。表向きは、これで終わったことになっている。
だが、颯太の中には、まだ何かが引っかかっていた。
あの産女が最後に囁いた言葉。
「あなたも、こっちに来る?」
まるで、颯太がいずれそちら側に行くと最初から知っていたかのような口ぶりだった。
偶然、とは思えなかった。




