第21話 「満月の残響」
カーテンの隙間、やけに濃厚で妖しい白い光が差し込んでいる。
あれから何度目かの満月。
以前なら身構えていた。いつ、どこへ引きずり込まれるか分からない、そんな緊張と共に迎える夜だった。
今は違う。
制御できるようになった。漏れは、もう起きない。それでも、この夜の夢だけは今も変わらず訪れる。澪に聞いても、これは"漏れ"とは別のものだろう、と言われた。美咲が遺した、もう一つの仕掛け。
この数ヶ月、颯太の日常は驚くほど変わった。神鳴という相棒を得て術式の初歩を学び、常盤と椎葉という、自分でも消化しきれない出自を知った。それでも、この満月の夜だけは何一つ変わらないまま颯太を迎え続けている。まるで時間の流れから、そこだけが取り残されているかのように。
そんなことを思い出しながら瞼をゆっくりと閉じる。
今夜は恐れるためではなく、待つために目を閉じた。
夏の匂い。
いつもの河川敷。いつもの美咲。夕暮れの熱気が、まだ肌に残る時間帯。遠くで蝉の声が名残惜しそうに鳴いていた。
「ねえ、今年こそ一緒に見ようね」
頷く。何度目かも分からない変わらない約束。それでも、この時間だけは何度訪れても色褪せなかった。
「颯太」
名前を呼ばれて隣を見る。
美咲の表情が変わっていく。いつもと同じ、あの瞬間。
目の奥に熱。だが恐怖ではなかった。今は、その先に何があるか知っている。
美咲の口が大きく動く。何かを必死に伝えようとしている。
聞こえない。今夜も、やはり聞こえない。
それでも今度は目を逸らさなかった。彼女の唇の動きを少しでも読み取ろうと意識を集中させる。
夕焼けの朱色、風の匂い、遠くの花火の音――全てがいつも通り鮮明なのに、彼女の声だけが頑なに世界から切り取られている。
唇が開く。閉じる。また開く。何度も同じ動きを繰り返しているようだった。焦っているのか、それとも必死に一つの言葉だけを伝えようとしているのか。
――なにか一文字だけ。読めた気がした。
景色が歪み始める。
「待って、もう少しだけ――」
届かない。世界が暗転する。
目を開けると朝だった。
カーテンの隙間、差し込む光はいつもの平凡な朝の光だった。
天井を見つめたまま、しばらく動けなかった。
読み取れた、あの一文字。空耳かもしれない。都合のいい願望が見せたまやかしかもしれない。
それでも颯太の中に小さな手応えが残っていた。三年間、何十回と繰り返してきた、あの一方通行の夢に、初めて僅かながら風穴が空いた気がした。
布団の中、右手をじっと見つめる。あの夜、美咲の手を握ろうとして、いつも届かなかった、この手を。指先に、まだあの夢の温度が微かに残っている気がした。
もしかしたら次は、もっと読み取れるかもしれない。そんな期待が胸の奥で静かに膨らんでいく。
それでも同時に小さな怖さもあった。もし、あの一言が颯太が最も聞きたくない言葉だったとしたら。期待と恐れが同じ重さで胸の中にせめぎ合っていた。
スマートフォンを手に取り、澪に短いメッセージを送る。
「今朝の夢で、少しだけ読み取れた気がします」
珍しく、すぐに返信が来た。
「何て」
「まだ、一文字だけです。確信もありません」
「一文字でも、いい。忘れないうちに書き留めとけ」
言われた通りメモアプリを開く。だが、いざ文字にしようとすると、あの音の輪郭が指の間からこぼれ落ちるように曖昧になっていく。何度も思い出そうとするが、記憶は掴もうとするほど遠のいていった。結局、颯太は「――」とだけ打ち込んで、それ以上進めなかった。
「――それでも、進歩だ。今度、詳しく聞かせろ」
その一言に、颯太の口元が僅かに緩んだ。素っ気ない言葉の裏に確かな気遣いがあることを、もう知っている。
いつからか澪とのこうしたやり取りが颯太にとって当たり前の日常の一部になっていた。三年前には想像もしていなかった変化だった。誰かに頼り、誰かと支え合う。そんな当たり前のことが、今の颯太には、まだ少し新鮮だった。美咲がいた頃の日々を、どこか思い出させる感覚でもあった。
ニュースアプリの通知が、いくつか溜まっていた。何気なく、その一つを開く。
見出しに目が止まった。
――多摩地域で乳幼児の失踪相次ぐ、警察が捜査
記事は短く詳細はほとんど書かれていない。ただ目撃情報が一切ない、という一文だけが妙に颯太の目に焼きついた。
スクロールする指が止まる。もう一度、同じ行を読み返した。目撃情報、一切なし。まるで最初から誰も見ていなかったかのような奇妙な書き方だった。
右目の奥、鈍い違和感が静かに疼き始めていた。
これまでとは明らかに違う、得体のしれない蟲が体を這うような不快な疼き方だった。土手で感じた警告とも山道の緊張とも、また質が違う。もっと粘つくような嫌な感覚。
思わず記事のスクリーンショットを撮り、澪に送った。
「これ、知ってますか」
既読がついたまま返信が、しばらく来なかった。
いつもは素早い返信が今日はなかなか届かない。その沈黙そのものが颯太の不安をじわじわと膨らませていった。




