第20話 「見えない傍観者」
空模様がやけに重く暗いのは、朝からの曇天のせいなのか、それとも電線に居並ぶ黒い鳥のせいなのか。
湿った風が頬を撫でていく。今にも雨が降り出しそうな重たい空気だった。
鈴の音が短く三回。
「――来た」
澪の声に迷いはない。
立川駅裏、廃業したビルの解体現場。夜間は無人のはずの敷地に二人はいた。
澪が事前に影行を放って探らせていた場所だった。
埃っぽい鉄の匂いとコンクリートの粉塵が混じった空気が、喉の奥にざらついた感触を残す。
鉄骨の隙間、コンクリートの粉塵が舞う暗がりに、それはいた。
輪郭が定まらない黒い塊。第一種、と澪は言っていた。意志も記憶も持たない、ただのエラー。それでも見ているだけで肌が粟立つような不快感があった。
「今日は、多いですね」
「ああ。最近、この辺り、発生率が上がってる」
「理由、分かってるんですか」
「――分かってたら、苦労しない」
その素っ気ない返しにも確かな苛立ちが滲んでいた。
颯太の右目の奥に鈍い熱が灯る。
「颯太、感じるか」
「――三つ、いや、四つ……?」
数えるたびに輪郭が揺れる。はっきりしない。だが、少なくとも三体は鉄骨の陰から確かに染み出してきた。
澪の口の端が僅かに歪んだ。笑みではない。舌打ちに近い表情だった。
「多いな。――神鳴」
颯太の影から狼が飛び出す。着地と同時に輪郭が精悍な獣の姿へと膨れ上がった。
神鳴の毛並みに青白い光が走る。空気がぴりりと痺れた。オゾンにも似た微かな匂いが鼻を突く。
「行け」
颯太が言うより先に、神鳴は既に地を蹴っていた。
迅雷。鉄骨の合間を雷そのものの速さで駆け抜ける。一体目の影に噛みつく瞬間、牙から電流が迸った。眩い青白い閃光が暗がりを一瞬だけ照らし出す。
影が悲鳴を上げて弾ける。輪郭ごと闇に溶けて消えた。
残る二体のうち一体が颯太に向かって突進してくる。
「颯太、右!」
澪の声に考えるより先に体を捻る。目の奥の熱が危険の方角を正確に射抜いていた。影が颯太のいた場所を薙ぐ。空振りに終わった影が体勢を崩す。
同時に、澪が自分の指先を軽く噛み血の玉を作る。フードの中から顔を出していた影行に、それを差し出した。
影行がその血を舐め取る。輪郭が瞬時に膨れ上がり精悍な獣の姿に変わる。地を蹴り、最後に残ったもう一体――颯太たちから見て左手、鉄骨の陰にいた三体目に向かって影の糸を放つ。糸がその動きを縛り上げた。
「――残り一体、いけるか」
澪の声が飛ぶ。
「いけます」
声に出しながら、自分でも、その言葉にいつもとは違う確信があることに気づいた。
体勢を崩したままの影――颯太を狙って空振りした、あの一体を見据えた。
目を閉じる。
言葉ではなく圧の重さと間合いだけを感じる。高尾山で覚えた、あの感覚。呼吸を整え、意識を影の輪郭だけに絞っていく。
影が体勢を立て直し、再び颯太に向かって迫ってくる。空気を切り裂く音が確かに聞こえた。
紙一重で躱す。すれ違いざま、握りしめた符に意識を集中させる。
「――急急如律令」
符が熱を持つ。影が輪郭を失って霧散した。
静寂が戻る。
膝に手をついて荒い息を整えた。心臓が、まだ激しく脈打っている。神鳴が颯太の傍らに戻り、鼻先で軽く肩を押してくる。労うような仕草だった。
「――やるじゃねえか」
澪が影行を肩に乗せたまま颯太を見る。土埃だらけの顔に珍しく、はっきりとした笑みが浮かんでいた。影行に縛られたままの三体目は澪の足元で、まだ低く唸っていた。
「二人がかりなら、この程度は片付く。悪くない」
「澪さんこそ、余裕そうでしたね」
「見た目ほど余裕はない。お前が右に躱さなかったら危なかった」
その一言に、颯太の胸が僅かに熱くなった。
「――でも、正直、まだ体が震えてます」
「震えてて当然だ。慣れたら、それはそれで問題だぞ」
澪の言葉に、颯太は少しだけ肩の力が抜けるのを感じた。
頷いた。息はまだ整わないが、体の奥に確かな手応えが残っていた。
一人だった頃とは明らかに違う。神鳴の存在が颯太の"察知"を初めて実際の"対処"に繋げてくれた。あの雷光の速さがなければ、最初の一体すら、まともに捌けなかったはずだった。
澪と影行。颯太と神鳴。
二対の組み合わせが初めて実戦の中で噛み合った瞬間だった。互いの弱点を互いの得意で補い合う。そんな感覚が確かにあった。
ふと、右目の奥に、まだ小さな違和感が残っていることに気づいた。
三体は確かに片付けた。だが、最初に感じた"四つ目"の気配は一度も姿を見せないまま消えていた。
「澪さん、もう一体、いたはずなんですけど」
澪の表情が僅かに強張った。
「――気のせいじゃないんだな」
「多分。数える度に輪郭が揺れて、はっきりしなかったんですけど……それでも確かにいた気がします」
「厄介だな。戦わずに退いた、ってことか」
「そんなことも、あるんですか」
「稀にな。様子見か、それとも――何かを待ってるのか」
澪の声に珍しく明確な苛立ちが滲んだ。まるで自分の理解の及ばない何かに直面しているような口ぶりだった。
戦わず、ただ見ていた何か。
その言葉の重みが、颯太の胸に静かに沈んでいった。




