第19話 「雷鳴の名は」
「――教えてほしいことがあります」
いつもの児童公園、待ち合わせの開口一番だった。
澪は電柱に寄りかかったまま片眉を上げる。
「珍しいな。お前から言い出すのは」
「そうですか?」
「いつもは、俺が呼び出す側だろ」
「名付けの術、教えてください。俺も自分の式を……」
声が喉の奥に引っかかる。怒られる前提で肩に勝手に力が入っていた。
フードの中の影行が、ひょこりと顔を出し、興味深げに颯太を見た。
澪はしばらく黙って颯太を見つめていた。値踏みするような、いつもの目。
「理由は」
「澪さんに頼ってばかりじゃ、いつか足を引っ張ります」
半分は本当だった。だが、もう半分は颯太自身にも言葉にしきれない衝動だった。強くなりたい。誰かに守られるだけの自分から、もっと遠くへ。
「それだけか」
澪の声が少し低くなる。
「……いえ。自分の足で立ってる実感が欲しいんだと思います」
澪は小さく息を吐いた。
「本来なら半年以上の修行が必要だ。それだけ式を扱うのはリスクもある」
「リスク、ですか」
「主人として式を従える器がなければ牙を向けれることもある」
「歯向かってくることもあるんですね」
「だが、お前はすでにかなりイレギュラーだ。試す価値はあるかもな」
「問題児みたいに」
「――座学は省く。お前には向いてない。体で覚えろ」
「いつもそれですね」
「文句あるか」
「ないです」
連れて行かれたのは、また高尾山だった。今度は参道からさらに奥、常盤の結界の外れ。
湿った土と朽ちた落ち葉の匂いが鼻をかすめる。木々の隙間から差し込む夕方の光が地面にまだらな影を落としていた。
「名付けの本質は支配じゃない。契約だ」
澪が地面に指で簡単な図を描く。
「相手の"本当の姿"を見抜いて、それに相応しい名を与える。偽りの名は弾かれる」
「弾かれたら、どうなるんですか」
「反発を受ける。運が悪けりゃ攻撃してくる」
「……普通に、怖いですね」
「だから覚悟がいるんだよ」
「見抜く、ってどうやって」
「お前の得意分野だろ。直感で"見る"んだ」
頷いた。
澪は少しの間、何かを考えるように黙っていた。
「――実は、練習相手として、ずっと気になってたやつがいる」
「気になってた?」
「お前がこの山に来るようになってから、ずっと考えてた。お前になら、もしかしたら、って」
颯太の胸が微かにざわついた。何を思い出しているのか、まだ分からない。
「――一体、当てがある」
澪が少し声を硬くして続けた。
「山の奥に、ずっと居着いてる狼型のバグがいる。おそらく、かなりの力を持っているが好戦的な感じじゃない――元々、誰かの式だった可能性が高い」
「誰かの、式……」
「主を失って、ずっとこの山を彷徨ってる。そんな気配がする。だから――お前になら応じるかもしれない」
颯太の心臓が跳ねた。
「怖いか」
「――少し」
「素直だな」
澪の口の端が僅かに緩んだ。
山道を日が傾くまで歩いた。澪の後を追いながら、右目の奥の違和感を頼りに気配を探り続けた。
風が変わる。木々のざわめきに混じって微かに獣の匂いがした。土でも腐葉土でもない、もっと生々しい体温を感じさせる匂い。
やがて木々の合間、開けた場所に出た。
そこに、いた。
碧い目。あの夜、提灯の灯りを頼りに山道を彷徨った時に出会った、あの獣だった。
だが、あの時とは違う。輪郭がはっきりと見える。
狼だった。
あの夜は犬なのか狼なのか判別すらつかなかった。今は迷いなくそう分かる。見え方が変わったのは獣の方ではない。颯太自身が変わったからだった。
「――お前」
声が思わず漏れた。
狼は動かない。ただ、じっと颯太を見ている。あの夜と同じ、値踏みするような視線。
息を吸うたび、獣特有の少し埃っぽい匂いが鼻を突いた。敵意はない。それでも体の芯が自然と強張る。
「知り合いか」
「前に一度。助けられました」
澪が僅かに目を細める。
「なら、話が早いかもな」
一歩、前に出た。狼は逃げも威嚇もしない。
目を閉じる。澪に教わった通り直感だけを頼りに、その"本当の姿"を見ようとする。
その奥に確かな何かがある。忠実さ、孤独、そして――誰かを待ち続けてきた長い年月。
颯太の口が自然と動いた。
「――神鳴」
言葉が勝手にこぼれ落ちる。
「お前の名前は神鳴、だ」
狼が天を仰いだ。
喉の奥から迸る声は遠吠えというより雷鳴そのものだった。空気が震え、木々の葉が一斉に揺れる。地面まで微かに振動している気がした。
澪が息を呑む気配がした。
「颯太、それ――」
言い終わる前に、狼が颯太に向かって駆け出した。
身構える間もなく狼の姿が颯太の胸に飛び込んでくる。衝撃はなかった。ただ、影が颯太の中に溶け込んでいくような奇妙な感覚だけがあった。冷たさと温かさが同時に胸を通り抜けていく。
その場に膝をつく。全身から力が抜けていく。
「――颯太!」
澪の声が遠くに聞こえる。
颯太の胸の奥、あるいは影のどこかで、小さな鳴き声のようなものがした気がした。
初めて、応えてくれた。
そう、感じた。
澪が駆け寄ってくる足音がした。地面に膝をついたまま、颯太はしばらく動けなかった。
「大丈夫か」
「……はい。なんか、変な感じですけど」
「変な感じ、で片付けるな。今、お前は正式に式を得たんだ」
澪の声には隠しきれない驚きが滲んでいた。
「まさか、名付けが一発で決まるとはな」
「まずかった、ですか」
「――いや」
澪は颯太の胸の辺りをじっと見つめた。
「あれだけの格を持った相手を一度で懐柔した。それがどういう意味を持つのか、まだ俺にも分からない」
しばらく考え込むように黙った後、澪は独り言のように呟いた。
「――元々、式の主人だったなら、考えられないこともない。だとしたら」
「――もしかしたら、凪の式だったのかもな」
颯太は自分の胸に、そっと手を当てた。
そこに確かに何かがいる。温かく、力強い、鼓動のようなもの。心臓とは違う場所で確かに何かが脈打っていた。
「神鳴」
名前をもう一度、口の中で呟いてみる。
応えるように胸の奥が微かに熱を持った。




