彼岸外伝 — 「西条もも・八咫烏就任式」
京都、伏見稲荷。
夜明け前、まだ空は深い藍色に沈んでいた。
千本鳥居の朱色が常夜灯の淡い光を受けて、闇の中に幾重にも連なっている。普段なら観光客の声で賑わうはずのこの場所も、今はしんと静まり返っていた。空気そのものが昼間とは、まるで別物のように張り詰めている。
冷たい空気が頬を刺す。吐く息が僅かに白く染まった。
西条もも、十八歳。
いつもの朗らかな彼女とは、まるで違う顔をしていた。背筋をまっすぐに伸ばし、一歩、また一歩と鳥居の続く道を進んでいく。
纏う空気が張り詰めている。まるで体の内側に見えない糸が、ぴんと張られているかのようだった。
足音だけが静寂の中に規則正しく響く。鳥居を一つくぐるたび、朱色の柱が、もも の横顔を赤く照らしては、また闇に沈めていった。まるで時が少しずつ巻き戻されていくような不思議な感覚があった。
――どこまで、続くんやろ。
そう思いながらも足を止めることはなかった。今日、この道の先に何が待っているのか。もも は既に聞かされていた。それでも、いざ、この瞬間を迎えると、想像していたよりも遥かに重く、そして鮮明だった。
やがて道が開けた場所に出る。
そこに、想像していたよりも遥かに多くの気配が静かに待っていた。
ざっと見渡しただけでも数十名はいる。もも は思わず息を呑んだ。これほどの人数が、この場所に集まっていることなど想像もしていなかった。
顔は暗がりの中、はっきりとは見えない。だが、その佇まいだけで彼らが只者ではないことが伝わってきた。
最前列に並ぶのは僅か十一名。それぞれが圧倒的な気配を纏っている。その一人、長身の男。紋付袴に身を包んだその姿からも常人離れした鍛え上げられ方をしている体つきが、はっきりと窺えた。もう一人は気だるげな雰囲気を纏った男。だが、その立ち姿には隙というものが一切感じられなかった。そして残りの九名も一様に静かな威圧感を放っている。
――あの十一名が、今の八咫烏。そして今日、うちが最後の一人になる。
その後ろに控えるのは恐らく三十名近い、彼岸の構成員たちだった。全国から、この日のために集まってきたのだろう。
もも の心臓が大きく鼓動を刻んだ。恐怖ではない。むしろ、その逆だった。これから自分が、あの十一名と肩を並べる最後の一人になるのだという実感が、体の芯からじわじわと込み上げてくる。
もも は、その前に進み出た。足の震えを必死に抑え込みながら。
中央に立つ一際大きな気配を纏った人物が静かに口を開いた。
「――西条もも」
「はい」
声が僅かに震えた。それを必死に抑え込む。夜明け前の冷気が、その震えを余計に際立たせているようだった。
「汝、これより八咫烏の名を背負う覚悟はあるか」
その一言が静かな夜明け前の空気に重く響いた。これまで積み重ねてきた全ての時間が脳裏を過ぎった。物心つく前から始まった厳しい修練の日々、幾度となく体に叩き込まれた礼式、京都の家で過ごした幼少期、そして、この日のために捧げてきた数え切れない努力。
傷だらけになった手のひらを、もも は無意識に握りしめた。この瞬間のために他の何を犠牲にしてきたか、数えきれないほどだった。
「――あります」
迷いはなかった。
もも は一歩、前へ出た。
その瞬間、周囲の空気が大きく揺らいだ気がした。まるで何か目に見えない力が、もも の周りに渦を巻いているような感覚。肌がぴりりと痺れるような、そんな感触すらあった。
「――本日を以て、汝を八咫烏と認める」
その言葉が静かな伏見稲荷の空気に確かに刻み込まれた。
もも の右手の甲に、一瞬、焼けるような熱が走った。見ると、そこに、これまで見たこともない小さな紋様が淡く浮かび上がっている。八咫烏の証。それは、もも の体に確かに刻まれた。
誰かが小さく拍手をした。それに続いて他の者たちも。だが、その音すら、どこか厳かな響きを持っていた。祝福というより厳粛な儀式の一部のような、そんな拍手だった。
もも は深く頭を下げた。
「謹んで、お受けいたします」
顔を上げると、目の前の人物たちの表情が僅かに緩んでいるのが見えた。厳しさの中に確かな労いの色があった。
「――西条もも。汝の配属を、告げる」
中央の人物が静かに続けた。
もも は思わず息を止めた。全国のどこに配属されるか、それは、この日まで誰にも知らされていなかった。
「東京」
その一言に、もも の心臓が大きく跳ねた。
東京。京都しか知らなかった自分が、これから、あの大都会で。会ったこともない人々と肩を並べて。想像するだけで恐怖より先に、抑えきれない高揚感が胸の奥から込み上げてくる。
「――は、はい! 謹んで!」
声が思わず上ずった。周囲から微かな笑い声が漏れる。恥ずかしさよりも湧き上がる期待の方が遥かに大きかった。
全てが終わり、もも は一人、伏見稲荷を後にした。
東の空が少しずつ白み始めている。夜明けが近づいていた。
不意に鋭い羽音が聞こえた。
「――もも!」
青白い光を纏った大きな鷺の姿が鳥居の上空を旋回しながら降りてくる。翼を広げたその大きさは優に、もも の身の丈を超えていた。天寧だった。
地に降り立つと、その巨躯を、もも の傍らに寄り添わせる。
「あまちゃん」
もも は、その首元に、そっと抱きついた。厳かだった空気が、その瞬間、一気に緩んでいく。
「無事、終わったんやねぇ。あぁ、よかったぁ……ほんま心配してたんやで。ずっと気ぃ気ぃしてたんやから」
天寧の声には隠しきれない安堵が滲んでいた。式である天寧は、この儀式に同席を許されていなかった。ただ遠く離れた場所で、もも の帰りをずっと待ち続けていたのだろう。
「もう、えらい遅かったやんかぁ。うち、何遍この空ぁ、ぐるぐる回ってた思てんねん」
「ごめんて、あまちゃん。儀式やから、しゃあなかったんやんか」
「わかっとるけども。ほんまに、あのもも が一人で、こんなたいそうな儀式に出て、大丈夫なんかって、うち、心配でしゃあなかったんやから」
小言まじりのその声には、隠しようのない愛情がたっぷりと滲んでいた。遅く帰った子供を叱る母親のような、そんな温かさが、そこには確かにあった。
「――で、ちゃんと、ご飯食べたん? 顔色、悪いで」
「え、そんなこと気にするタイミングちゃうやん、今」
もも は思わず噴き出した。数時間前までの、あの張り詰めた表情は、もう、どこにもなかった。いつもの朗らかな笑顔が朝焼けの光の中に戻ってきていた。
「あまちゃんは、ほんま、おかんみたいやな」
「誰が、おかんやねん。うちは、親友のつもりでおるんやけどな」
「親友にしては、口うるさいで」
「それは、もも のためを思ってこそやろ!」
二人のいつものやり取りが静かな山道に軽やかに響いた。
「その顔、何かあったん?」
天寧がふと真顔に戻って、もも の顔をじっと見つめた。
「うん」
もも は小さく微笑んだ。
「うち、東京に行くことになった」
天寧の丸い目が大きく見開かれた。
鳥居の連なりを抜け、山を下りていく。振り返ると朱色の柱の群れが朝焼けの光を受けて静かに燃えるように輝いていた。数時間前まで、あの場所で交わされていた厳かな空気の余韻が、まだ体の奥に残っている気がした。
冷たい空気を深く吸い込んだ。肺の奥まで、その冷たさが染み渡っていく。それでも不思議と、心の内側には確かな熱が灯り始めていた。
ふと空を見上げる。
一羽の黒い烏が鳥居の上を悠然と飛んでいくのが見えた。その姿が朝焼けの空にくっきりと影を落としている。
もも はしばらく、その姿を見つめていた。何か大きな意味を持つ光景のような、そんな予感があった。
この日、西条ももは八咫烏となった。
それが彼女の運命を大きく変えることになるとは――
この時の彼女は、まだ知らなかった。
この後、東京という見知らぬ土地で、どんな出会いが待っているのかも。まだ何一つ。ただ夜明けの空の下、一つの覚悟だけを胸に抱いて、もも は静かに山を下り続けた。




