第18話 「彼女の傷痕」
符から伝わる震え方が、いつもと違う。
いつもは規則的な脈動が、今日は、不安を煽るように不規則だった。まるで、符自体が、何かに怯えているような揺れ方だった。
颯太の手のひらで、影行が小さく鳴いた。低く、長く。澪から聞いた"影の言語"では、確か――警戒。
「澪さん、これ」
「分かってる」
澪の声が硬い。
夜の児童公園、いつもの待ち合わせ場所のはずが、今日は様子が違った。ブランコの鎖が、風もないのに軋んでいる。砂場の砂が、うっすらと黒ずんでいた。
いつもと同じ場所のはずなのに、空気の質感がまるで違う。まるで、この場所だけが、他の世界から切り離されているような、そんな異様な静けさがあった。
影行が、颯太の手のひらから飛び出し、闇の中へ溶けていく。
しばらくして、影行が戻ってきた。空中で輪郭を持ち直し、小さな鈴の音を鳴らす。短く、三回。
「敵の位置、伝えてます?」
「ああ」
澪が砂場の奥を睨む。
そこに、それはいた。
子供ほどの背丈。顔がはっきりしない。ただ、輪郭の端々に、見覚えのある癖があった。俯きがちな姿勢、右肩だけ僅かに下がった立ち方。
澪の体が固まった。
これまで、どんな相手を前にしても、微塵も揺らがなかった彼女が。颯太は、その異変だけで、ただ事ではないと悟った。
「――澪さん?」
返事がない。澪はその場に立ち尽くしたまま、印を組む手が止まっていた。
颯太は、彼女の横顔を見る。いつも冷静な彼女の目が、揺れていた。
子供の形をした何かが、一歩、近づいてくる。
「姉ちゃん」
声が響いた。舌足らずな、幼い声。
その声の響きに、颯太自身も、思わず息を呑んだ。作り物の声とは思えないほど、生々しい温度があった。
澪の顔から血の気が引いていく。
「――違う」
絞り出すような声だった。
「これは、あいつじゃない」
分かっている。頭では、分かっている。それでも、体が動かない――そう言っているように、颯太には見えた。
颯太の中で、目の奥の熱が静かに立ち上がる。今度は、恐怖のためじゃない。
「澪さん、下がって」
彼女の前に出た。
子供の形をしたものが、こちらを見る。顔のない顔が、笑ったような気がした。
「――お前は、澪の"あいつ"じゃない」
声に出す。確信はなかった。ただ、言わなければならない気がした。
影行に視線を送る。影行が小さく頷くように、体を揺らした。
「澪さん、影行に指示、出せますか」
沈黙。それから、掠れた声が返ってきた。
「――影行。捕らえろ。祓うな」
影行が、闇の中で膨れ上がり、精悍な獣の姿に変わる。その変化を目にするたび、颯太は、この式の持つ二つの顔——愛らしさと、確かな力強さを、改めて思い知らされた。
黒い影が、地を蹴った。子供の形をしたものへ、迷いなく飛びかかる。
短い、しかし激しいせめぎ合いがあった。子供の形をしたものは、輪郭を失いながらも、しばらく抵抗を続けた。だが、影行の影の糸が、その動きを、じわじわと縛り上げていく。悲鳴とも呻きともつかない声が、闇に響いた。
颯太は、その光景を、息を詰めて見守っていた。祓うな、という澪の指示の重さを、改めて噛み締める。これは、単なる敵ではない。彼女にとって、かけがえのない誰かの、成れの果てなのだ。
やがて、それは、輪郭を保てなくなり、闇の中に溶けて消えた。
静寂が戻る。
澪を振り返った。
彼女は、その場にしゃがみ込んでいた。膝を抱え、俯いている。肩が、微かに震えていた。いつも背筋を伸ばしている澪からは、想像もつかない姿だった。
何も言わず、その隣に座った。
しばらく、二人とも、口を開かなかった。
やがて、澪が小さな声で言った。
「――弟だった」
黙って、続きを待つ。心臓が静かに重く鳴っていた。何を聞かされるのか、覚悟を決める間もなかった。
「十年前。堕ちた。俺が、調伏した」
声が震えている。
「殺したわけじゃない。ただ、名を封じて、眠らせた。今も眠ってるはずなのに……」
声の震えが、これまで見てきたどの澪とも違っていた。いつも、感情を押し殺し、実務的に振る舞ってきた彼女が、初めて、颯太の前で、その仮面を外していた。この人にも、こんな一面があったのかと、颯太は、静かに驚いていた。
何も言えなかった。ただ、彼女の肩の震えを、見ないふりもせず、かといって触れもせず、そのままにしていた。
「今のは、あいつじゃない。分かってる。ただの、バグが、記憶を真似ただけだ」
澪の声に少しずつ、いつもの硬さが戻ってくる。
「なのに、体が動かなかった」
その一言に、これまで積み上げてきた彼女の強さの裏にある、脆さが滲んでいた。
颯太は、それ以上、何も言わなかった。ただ、隣に座り続けた。何か気の利いた言葉をかけるより、ただそこにいることの方が、今の澪には必要な気がした。
夜風が、二人の間を、静かに通り抜けていく。遠くで、電車の音がした。それだけが、この場所にまだ日常が続いていることを、かろうじて教えてくれていた。
澪はしばらく黙っていた後、小さく息を吐いた。立ち上がり、土埃を払う。
その瞬間、小さな影が一つ、跳ねるように駆けてきた。影行だった。獣の姿から、いつの間にか、小型犬ほどの姿に戻っている。
助走もなく、澪の胸元に飛びつく。丸い頭が、彼女の顎の下に、ぐりぐりと押し付けられた。
「――っ、うざい」
突き放すような声。だが、その手は、影行を振り払わなかった。むしろ、片手が、無意識のように、影行の背を撫でていた。
「――借りができたな」
声は、もう普段の硬さに戻っていた。だが、颯太には、それが無理に張り直された声だと分かった。
それでも、あえて何も指摘しなかった。今、この瞬間の澪に必要なのは、追及ではなく、ただ隣にいることだと、颯太は感じていた。
何も言わず、立ち上がった彼女の後を、黙ってついていった。
影行は、最後まで、澪の腕の中から離れなかった。夜道を歩く二人と一匹の影が、街灯の下、静かに、長く伸びては、また縮んでいった。




