第17話 「夜間遊歩」
常盤家、椎葉家、凪、玄一――怒涛の情報の中で、気づけば美咲のことを考える時間が、めっきり減っていた。
自嘲するように、笑った。
会いたい気持ちは、日に日に強くなっているはずなのに。それに見合うだけの自分に、まだ、なれていない。
積み上がっていくのは、知識と、謎と、緊張だけだ。肝心の、彼女に近づけている実感は、どこにもなかった。
このまま、颯太は、自分が何者かを知ることに追われ続けて、本当に大切なもの——美咲を救うという目的そのものを、見失ってしまうのではないか。そんな不安が、頭によぎり苦々しくなる。
夜、颯太は部屋を出た。行き先は決めていない。ただ、じっとしていられなかった。閉じた部屋の中では、考えがどんどん悪い方向に転がっていくばかりだった。
高尾山から戻って、五日。澪からの連絡はない。
住宅街の裏道を、あてもなく歩く。街灯が一つ、点滅している。踏切の警報が、遠くで鳴っていた。
右目の奥が疼いた。
いつもと、感触が違う。鋭さではなく、粘つくような重さ。まるで、皮膚の下を、生温かい何かが這っているような。今までの警告とは、明らかに異質な感触だった。
だが、それとは別に、もっと深いところで、確信があった。
来る。
目の感覚とは違う。理由も、根拠もない。ただ、直感が、そう告げていた。これだけは、颯太が生まれつき持っている、唯一揺るがない感覚だった。
これまで、この直感に助けられたことが、何度もあった。だが、今夜ほど、その確信が重く感じられたことはなかった。澪もいない、影行の姿も見えない、この状況で、頼れるのは、自分自身の感覚だけだった。
足を止めた。
背後で、砂利を踏む音。
振り返る。誰もいない。
歩き出す。また音がする。今度は明らかに、颯太の歩調に合わせていた。
やはり、来る。何なのかは、分からない。だが、それだけは、疑いようがなかった。逃げるべきか、迎え撃つべきか、まだ判断がつかなかった。
息が浅くなる。澪から教わった呼吸を、思い出そうとする。だが、頭が上手く働かない。恐怖が、これまで身につけてきた冷静さをじわじわと侵食していくのが分かった。
街灯が、また点滅した。その一瞬の暗転の間に、颯太のすぐ後ろに、何かが立った気配があった。
振り返れない。振り返れば、その距離の近さを、思い知ることになる気がした。
駆け出した。
背後の足音も、速度を上げる。息が上がる。心臓が喉のあたりまで迫り上がってくる。
周囲の家々の窓明かりが、次々と後ろへ流れていく。誰かに助けを求めることも、頭をよぎった。だが、声を上げる余裕すらなかった。
角を曲がった瞬間、転んだ。膝がアスファルトに擦れる。熱い痛みが走る。
起き上がる間もなく、影が頭上に伸し掛かってきた。
黒い、輪郭のない塊。腕のようなものが、颯太の首元に伸びてくる。
懐の符を、掴む手が震える。文言が、頭から飛んでいた。澪に教わった言葉が、何一つ出てこない。
だが、体は、覚えていた。
目を閉じろ。感じろ。高尾山で、繰り返し叩き込まれた、あの感覚。
震えながらも、目を閉じる。
言葉ではなく、圧の重さと間合いだけを意識で捉える。腕のようなものが、迫ってくる速度、角度。
考えるより先に、体が動いていた。理屈じゃない。ただ、生きたい、という一点だけが、颯太を動かしていた。
澪はいない。頼れるのは、この体一つだけだった。それでも、恐怖より先に、不思議な冷静さが、腹の底に根を張っていた。高尾山で積み上げてきた感覚が、確かに、颯太自身の一部になっている証だった。あの祠の前で、繰り返し体に叩き込んだ、あの静けさが、今、確かに颯太を支えていた。
符を握った手で、目の前の"何か"を、力任せに突き飛ばす。狙いは、寸分の狂いもなかった。まるで、何度もこの動きを練習してきたかのような、迷いのない一撃だった。
悲鳴のような音が、耳をつんざいた。影が、後ずさるように、闇の中へ溶けていく。
地面に座り込んだまま、動けなかった。
膝の擦り傷が、じくじくと痛む。息がいつまでも整わない。
右目に触れる。熱は、もう引いていた。いつもなら、しばらく尾を引く違和感が、今日は残っていない。まるで、体が、この程度の脅威には、もう驚かなくなったかのようだった。
手のひらの符は、ぼろぼろに擦り切れていた。
しばらくして、震える指でスマートフォンを取り出した。澪への短いメッセージを、何度も打ち直す。何をどう伝えればいいのか、うまく言葉が纏まらなかった。無事だと伝えたいのか、それとも、怖かったと訴えたいのか、自分でも分からなかった。
「――出ました。何とか、無事です」
送信すると、ほとんど間を置かず、返信が届いた。
「知ってる」
たった三文字。画面を、思わず二度見した。なぜ、こんなに早く。そして、なぜ、知っている。澪の返信の速さが、逆に、颯太の不安を煽った。まさか、ずっと見張られていたのだろうか。
視線を感じて、顔を上げる。
電柱の陰、街灯の光の端。小さな影が一つ、丸い目でこちらを見ていた。ふわふわとした輪郭。
影行だった。
颯太と目が合うと、影行は、どこか得意げに、口の端を持ち上げた――ように見えた。
颯太はへなへなと肩を落とす。安堵と気恥ずかしさが、同時に込み上げてくる。信用されていない、ということだったのか。それとも、これが彼女なりの、譲れない距離感なのか。
どちらにせよ、澪は颯太のことを完全に放っておいたわけではなかった。その事実だけで、胸の奥がじんわりと温かくなった。一人で立ち向かったつもりでいたが、実際には、見えないところで、誰かに見守られていたのかもしれない。
勝った、という感覚は、どこにもなかった。
ただ、生き延びた。それだけだった。
それでも、一人じゃなかったのだと分かって、少しだけ、肩の力が抜けた。
立ち上がろうとして、膝の痛みに顔をしかめる。それでも、颯太はゆっくりと足に力を込めた。今夜、確かに、何かを乗り越えた。その実感だけが、痛みの奥で、静かに残っていた。




