第16話 「高尾山の洗礼」
ケーブルカーの窓から見える斜面は、観光客向けの案内板と、色とりどりのリュックで賑わっていた。
澪は、無言でその流れから逸れ、脇の獣道へ入っていく。舗装された参道の喧騒が、あっという間に遠のいた。まるで、別世界への入り口を、静かに通り抜けたかのようだった。
木々の匂いが、変わる。湿った土と、腐葉土と、もっと奥にある何か古いものの気配。
観光地としての高尾山と、この獣道の先にある高尾山。同じ山のはずなのに、まるで別の場所のように感じられた。足場は、一歩ごとに悪くなっていく。木の根が、地面から露出し、踏みしめるたびに、靴底が滑った。未開拓の地に、足を踏み入れているような緊張感があった。
しばらく歩くと、朽ちかけた石段が現れた。誰の手入れも受けていない、苔むした階段。その先に、小さな祠があった。
「ここが、常盤の結界の中心だ」
その一言に、颯太は思わず姿勢を正した。
祠の前に立つ。特別な感覚は、何もなかった。ただの古い石の塊に見える。
澪は颯太を祠の正面に立たせ、自分は少し離れた場所に座った。
「復習だ。目を閉じて、"漏れ"を止める。今度は、この結界の中でやる」
頷いた。目を閉じる。息を止め、意識を右目の奥へ集める。
風が止んだ。
鳥の声も、虫の音も、聞こえない。まるで、山全体が息を殺しているような静寂。
集中の最中、この静けさに異常を察知した。
目を開ける。
澪の表情が変わっていた。座ったまま、視線を上に向けている。
「――颯太、動くな」
声に、初めて明確な緊張があった。澪のそんな声を聞くのは、初めてだった。
視線を追う。祠の背後、木々の間。何かが、こちらを見下ろしていた。見えない重力が、全身を包んだ。
人の形をしている。だが、大きすぎる。すぐ近くの梢と葉に阻まれ、輪郭の全貌は掴めない。それでも、隙間から伝わってくる気配だけで、尋常でない大きさだと分かった。ただ、金色の目だけが、暗がりの中でくっきりと二つ、燃えるように光っていた。瞬きをしない。呼吸の音さえ、聞こえない。
これまで遭遇してきた、どの異形とも違う。輪郭が曖昧な影とも、人と獣が入り混じった何かとも、明確に一線を画す、圧倒的な"格"を持った気配だった。
颯太の目の奥が焼けるように熱くなる。今までの、どの感覚よりも重い、圧倒的な"格"の違いを感じさせる熱だった。
「澪さん、あれ」
「分かってる」
澪が立ち上がろうとした瞬間、頭上の"何か"が動いた。
風もないのに、木々が激しく揺れる。突風のような圧が、二人を襲った。澪の体が後方に吹き飛ばされる。
「――っ!」
澪は地面に叩きつけられた。呻き声を上げて、すぐには起き上がれない。
動けなかった。頭では分かっている。逃げるべきだ、あるいは澪を助けに走るべきだ。だが、体が竦んでいた。
"何か"が、澪へ向かって、また圧を放とうとしている。
倒れた澪の姿が、一瞬、別の誰かと重なった。
河川敷。夕焼け。腕を、掴めなかった、あの時の自分。
――また、目の前で。
同じ後悔を、繰り返すわけにはいかない。理屈でそう考えるより先に、体が、既に動き出していた。
気づいたときには、駆け出していた。
土を蹴る感触も、迫る圧の重さも、意識より遅れて追いついてくる。颯太の影が、澪の上に覆い被さる。両腕を広げたその背中に、"何か"の圧が、重く伸し掛かった。
骨が軋むような痛みが、肩から背中にかけて走った。それでも、腕を下ろすことはできなかった。
声にならない叫びが、喉から溢れる。
「――やめろ!」
自分でも、何を言っているのか分からなかった。ただ、体の奥底から、何かが噴き上がってくる。三年間、押し殺してきた何かが。
もう、目の前で誰かを失いたくない。
頭上の圧が、一瞬、止まった。
しばらくの沈黙があった。
全身が、汗ばんでいる。心臓が耳の奥で鳴り続けている。澪を守る、という一心だけで動いた体は、今になって、その代償を払うように、細かく震え始めていた。
止まった針が動き出すように、気配が、ゆっくりと薄れていった。木々のざわめきが収まり、鳥の声が、少しずつ戻ってくる。
目を開けた。
梢の上には、もう何もいなかった。
崩れるようにその場に座り込む。膝が笑っていた。
「……澪さん、大丈夫ですか」
駆け寄ると、澪は体を起こしながら、颯太を見上げていた。土埃だらけの顔に、驚きが浮かんでいる。
「お前、今――」
「分かんないです。気づいたら、体が勝手に動いてて」
澪はしばらく颯太を見つめたあと、小さく息を吐いた。
「合格、ってことだろうな。あれに」
「あれって」
「山の主だ。天狗、といえばわかるだろ。常盤の血を引く者が、資格があるかどうかを、測る存在だ」
まさか、山に足を踏み入れた瞬間から、既に何かの"試験"が始まっていたのだとしたら。そう考えると、これまでの緊張感の全てに、別の意味が付与される気がした。
天狗。子供の頃、絵本か何かで見た記憶が、微かに蘇る。まさか、そんな存在が、本当にこの山に棲んでいるとは、想像もしていなかった。
まだ震える手を、じっと見つめた。
「颯太」
澪が立ち上がりながら、颯太を見た。土で汚れた頬に、微かな笑みのようなものが浮かんでいる。
「体が先に動いた。それでいい」
短い言葉だった。だが、颯太の胸の奥に、弾むほどの熱が灯った。それと同じく、懐で冷えていたはずのお守りにも、やわらかな温もりが宿ったような気がした。
これまで、颯太の力は、常に美咲を救えなかった過去への執着から生まれていた。だが今日、初めて、誰かを"守れた"という実感があった。それは、これまでとは全く違う種類の手応えだった。
澪は颯太の顔を、しばらくじっと見つめていた。何かを確かめるような、値踏みとは違う、もっと柔らかな視線だった。
「――澪さん、次は、何をすればいいですか」
声がまだ僅かに震えていた。
澪は僅かに目を見開いたが、何も言わなかった。ただ、小さく頷き、山を下りる方向へ、歩き出した。
颯太はその背中を追いながら、胸の奥に灯った熱を、静かに噛み締めていた。




