第15話 「常盤の宿縁」
鳥居をくぐると、前回と同じ静けさが、境内を満たしていた。
だが、今日は一人ではない。隣に、梓澪がいる。フードの中の影行は、珍しく顔を出さず、じっと息を潜めているようだった。まるで、この場所に漂う気配に、警戒しているかのように。
前回、一人でここに来た時とは、明らかに違う心持ちだった。何もかもが、あの時より、少しだけ現実味を帯びて見える。
本殿の脇、玄一は、まるで来訪を予期していたかのように、既にそこに立っていた。
「――今度は、二人か」
玄一の視線が、颯太から梓澪へ移る。
「常盤の分家の子か。噂には聞いていた」
「話が早くて助かる」
梓澪は一歩前に出た。物怖じしない口調だった。
「この男の目、放っておけば手遅れになる。あんたなら、それくらい分かるはずだ」
玄一の表情が僅かに動いた。
「――随分と、踏み込んだ物言いをする」
玄一の声に、僅かな驚きが滲んだ。これまで、これほど直截に言い返された経験は、そう多くないのかもしれない。
「回りくどいのは性に合わない。時間の無駄だ」
沈黙が落ちる。玄一は、颯太の目を、もう一度見据えた。前回と同じ、値踏みするような視線。
「進行が、速いな」
「知ってるのか」
「知らない、と言えば嘘になる」
玄一は颯太に向き直った。
「颯太くん。その目は、常盤の血に眠る力の残滓だ。だが、単なる血の力じゃない。何かに"触れて"いる」
「触れてる、って」
「常盤の血に、何らかの宿縁が深く関わっている、ということだ」
颯太の心臓が大きく跳ねた。
「――何らかの宿縁、って」
「常盤に伝わる話としては、大昔、多摩川の氾濫を鎮めるための人柱になった者がいる。それが最初の依代になったと伝わっている。その因習は、江戸の時代まで続いたとも言われている」
言葉を失った。ずっと朧げだった存在に、初めて輪郭が与えられた瞬間だった。
「常盤の血筋と、その宿縁。この二つは、何らかの因子で繋がっていると言われている。詳しいことは、私も知らない」
「そいつが、颯太くんの中の力と、繋がっている。目の"漏れ"は、恐らく、その繋がりが強まっている証拠だ」
「止める方法は」
梓澪が間髪入れずに尋ねた。玄一は僅かに目を伏せる。
「――心当たりが、一つだけある。ただし、確証はない。古い言い伝えの域を出ない話だ」
「言え」
「――力の"始まりの場所"に戻り、繋がりの根そのものと向き合うことだ」
颯太の頭の中で、何かが繋がりかけていた。
"始まりの場所"。玄一の言葉が、頭の中で音を変える。多摩――たま。霊魂の「霊」も、同じ響きを持つ。ただの偶然かもしれない。それでも、颯太の記憶の底で、冷たい水の感触が、微かに疼いた。
あの日、颯太が溺れた川。
「――もしかして、多摩川、ですか」
玄一は僅かに目を見開いた。
「知っていたか」
「――俺、あそこで溺れかけたことがあるんです。子供の頃に」
「――そうか。因果だな」
玄一は颯太を見据えたまま、続けた。
「だが、今すぐには勧めない。その目、制御できないまま踏み込めば、何が起こるか分からない。危険すぎる」
「じゃあ、どうすれば」
「常盤の一族は、古来よりゆかりの霊場で研鑚してきたと聞いている」
玄一は僅かに肩をすくめた。
「もっとも、私が知っているのは、そこまでだ。今、その山がどうなっているかは、常盤の人間に聞くべきだろうな」
颯太には、まだピンとこなかった。だが、梓澪の表情が、僅かに動いた。
「――高尾山、だな」
「あそこなら、まだ結界が機能してる。私たちの一族が、代々守ってきた場所だ」
玄一の歯切れの悪さを、梓澪はあっさりと埋めた。
「そいつの名前は」
思い切って、尋ねた。
玄一はしばらく沈黙した後、静かに答えた。
「――凪」
その響きを口の中で、もう一度確かめた。まるで、初めて聞くはずなのに、どこか懐かしいような、奇妙な感覚があった。
颯太の全身が粟立った。
新宿で聞いた、あの呼び名。ずっと、颯太自身の知らない名前だと思っていた。だが違う。
あれは、颯太に向けられた名前ではなかった。
「――遠い昔、常盤の者で堕ちた者がいた。その者は"凪"と呼ばれるようになった、という話を聞いたことがある。それが一人だったのか、それとも他にもいたのか、私は知らない」
震える拳を握りしめた。堕ちた、という言葉が、耳の奥にこびりついて離れない。それは、颯太自身の未来にも起こり得ることなのか。そう考えるだけで、背筋が冷たくなった。
ふと、隣を見る。梓澪の表情が、僅かに強張っていた。もっと複雑な、何かを噛み殺すような顔だった。まるで、初めて聞いた話ではないような。
颯太はそれを尋ねる勇気が出なかった。梓澪の横顔には、これ以上踏み込むことを拒むような、静かな壁があった。今は、そっとしておくべきなのだろう、と颯太は判断した。
「それを、止めたいなら――高尾山に行け。今すぐにでも」
玄一は踵を返しかけて、足を止めた。振り返らないまま、続ける。
「颯太くん」
「――はい」
「一つだけ、言っておく」
声の温度が僅かに変わった。
「美咲は、君を巻き込みたくなかったはずだ。掟を破ってまで守ろうとしたのは、君を、この世界に近づけたくなかったからだ」
息を呑んだ。
「それでも、こうなった。だが君は、美咲のために自分を追い詰める必要はない。それは、贖罪じゃない。ただの、自傷だ」
玄一はそれだけ言うと、本殿の奥へと消えていった。夕暮れの光が、その後ろ姿を、静かに包み込んでいた。
その言葉の意味を、すぐには飲み込めなかった。ただ、胸の奥の、ずっと固く縛っていた何かが、少しだけ緩んだ気がした。
自傷。その一言が、これまで颯太が自分自身に課してきたものの正体を、正確に言い当てているようだった。認めたくはなかった。それでも、否定しきれない重みが、確かにそこにあった。
梓澪が颯太の肩に、軽く手を置いた。
「聞いた通りだ。行くぞ」
頷いた。
凪という名前と、玄一の最後の言葉が頭の中で、何度も反響していた。
鳥居をくぐり、境内を後にする。夕闇が、いつの間にか、辺りをすっかり覆っていた。高尾山へ向かう道のりを思うと、颯太の胸の奥に、恐れとも期待ともつかない、複雑な熱が灯り始めていた。




