第14話 「落日の決意」
鈴の音は、今回は使わなかった。
鏡を見るのがまた少し怖くなっていた。右目の白い滲みは、この数日でさらに範囲を広げている。視界の端、常に薄い霧がかかっているようだった。誰かに気づかれる前に、隠さなければならない。
母は、まだ何も気づいていない。だが、いつまで誤魔化せるか分からなかった。食卓での何気ない会話、鏡台の前で交わす一言。全てが、綱渡りのように感じられる日々だった。
この視力を失っていく感覚と引き換えに、颯太は、何を得ているのだろう。時折、そう自問することがあった。だが、答えはいつも同じところに行き着いた。美咲に近づくためなら、この代償は、まだ支払い足りないくらいだ、と。
その考えが、どれほど危険な均衡の上に成り立っているか、颯太自身、うっすらとは気づいていた。それでも、今は、立ち止まるという選択肢が見えなかった。
誰かに相談すれば、きっと止められる。だからこそ、この感覚だけは、誰にも話さないようにしていた。梓澪にさえも。
颯太は大学帰りにいつもの児童公園へ向かった。呼び出さなくても、梓澪は大抵そこにいる気がしていた。
根拠のない予感だったが、当たっていた。この数週間で、颯太は梓澪の行動パターンを、少しずつ読めるようになってきていた。
電柱の傍、梓澪はいつも通りの佇まいで待っていた。フードの中、影行が眠たげに顔を覗かせている。夕暮れの光が、二人の影を長く地面に伸ばしていた。
影行と目が合うと、小さな式は、耳をぴくりと動かした。まだ、颯太に対して警戒しているのか、それとも単に眠いだけなのか、判然としない。それでも、以前よりは、僅かに距離が縮まっている気がした。
「――何かあったな」
顔を見ただけで、そう言われた。誤魔化す間もなかった。
洗いざらい話した。椎葉家の神社に行ったこと。玄一という当主に会ったこと。目を見ただけで常盤の血を見抜かれたこと。そして、突き放されたこと。
美咲が、颯太のために掟を破っていたという話をする時、声が僅かに震えた。梓澪は何も言わず、ただ黙って聞いていた。その静けさが、かえって話しやすかった。
話しながら、自分の声が、思いのほか落ち着いていることに気づいた。あの日の衝撃を、まだ完全に消化できたわけではない。それでも、こうして誰かに話すことで、少しずつ、輪郭が整理されていく感覚があった。
話し終えると、梓澪はしばらく黙っていた。
「――玄一、本人が出てきたのか」
「知ってるんですか」
「名前だけはな。椎葉本家の当主だ。表に出てくること自体、珍しい」
梓澪は腕を組んだまま、視線を夜空に向けた。
「そこまで拒絶されたなら、正攻法じゃもう無理だな」
「じゃあ、どうすれば」
梓澪はしばらく黙考した後、颯太を見た。夜の空気が、二人の間で冷たく澱んでいる。
「もう一度、行くぞ。神社に」
「……俺と一緒に、ですか」
「一人で行って追い返されたんだろ。だったら、次は違う角度から当たる」
「玄一さん、話す気なさそうでしたけど」
「お前が行った時とは、話が変わる」
梓澪は颯太を見据える。その目には、これまで見たことのない、確かな覚悟のようなものが宿っていた。
「俺は、常盤の分家とはいえ、あっちの世界の人間だ。門前払いはできても、完全に無視はできない。向こうも、こっちの事情を知りすぎてる」
頷いた。梓澪と共に行けば、確かに、状況は変わるかもしれない。
「それに」
梓澪の声が僅かに低くなる。
「お前は、俺が止めても、いずれ一人で何かやらかすだろ。だったら、隣にいた方がマシだ」
その通りだった。何も言い返せなかった。図星を突かれると、いつもこうだ。梓澪には、颯太の考えていることなど、最初から全部見透かされている気がした。
だが、それだけではなかった。梓澪の言い方には、どこか、ただの忠告以上の響きがあった。まるで、"一人でやらかす"人間の気持ちを、経験として知っているような口ぶりだった。梓澪自身も、誰かに止められる前に、一人で動いてしまうタイプなのかもしれない。そんな想像が、頭をよぎった。
実際、あの新宿への単独行動も、梓澪の予想の範囲内だったのかもしれない。そう思うと、自分の行動の浅はかさが、今更ながら恥ずかしくなった。それでも、梓澪は、それを咎めることなく、ただ淡々と、次の一手を組み立てている。その在り方に、密かに救われている自分に気づいていた。
「いつ、行くんですか」
「善は急げ、って言葉、知ってるか」
「今から、ってことですか」
「不満か」
「いえ」
声が少し上ずった。動揺を隠しきれていない自覚はあった。
首を振る。むしろ、望むところだった。むしろ、一人で悶々と考え続けるより、今すぐ動き出せることの方が、ずっと気が楽だった。
梓澪は懐から、あの符を取り出した。影行がフードの中で、僅かに身じろぎする。
「言っとくが、今度は、俺が話す。お前は、口を挟むな」
「分かりました」
短く答えた。だが、内心では、少なからず緊張していた。
「本当に分かってるか怪しいが――まあいい。行くぞ」
梓澪はそう言うと、颯太の返事を待たずに歩き出した。この人は、いつもこうだ。相手の準備が整うのを、律儀に待つことをしない。だが、そうやって急ぐ姿の裏に、確かな気遣いが隠れていることも、颯太はこの数週間で少しずつ理解し始めていた。無駄な言葉を並べない代わりに、必要な時には、必ず隣にいてくれる。それが、梓澪という人間の在り方だった。
頷いた。
目の奥に、いつもとは違う種類の熱が、静かに灯り始めていた。恐怖でも、警告でもない。もっと、覚悟に近い熱だった。
公園を出て、夜道を歩き出す。梓澪の背中は、いつもと変わらず、迷いがなかった。その背中を追いながら、颯太は拳を、静かに握りしめた。
街灯の明かりが、二人の影を、交互に長く伸ばしては、また縮めていく。すれ違う人々は、誰も、颯太たちが向かおうとしている場所の異様さになど、気づくはずもなかった。日常と非日常が、こんなにも隣り合わせに存在していることを、颯太は今更ながら実感していた。
仕事帰りのサラリーマン、部活帰りの学生たち。誰もが、それぞれの日常を生きている。その只中を、颯太たちだけが、全く別の世界へと向かって歩いていた。
今度こそ、何かを掴んで帰るつもりだった。




