表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
雲の上の咆哮 ―羊の民、三千年の歌―  作者: 武陵隠者
第十三章:草原の死神、砂の静寂

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
91/134

第三節:「蒼き狼」の合理、処刑としての戦

 興慶府こうけいふの堅牢な城壁の上に立ったアシャが目にしたのは、神話的な「軍勢」ではなかった。

 地平線を埋め尽くしていたのは、一つの意志によって統率され、無駄な動きを一切排除された、巨大な「解体機」とも呼ぶべき無機質な集団であった。


 まず、音が変わった。

 昨日まで街を満たしていた、寺院の鐘の音や役人の奏でる筆の音といった「高い音」は、押し寄せる重低音の壁によって完全に圧殺された。何万というひづめが大地を打ち据える震動は、空気を通じてアシャの肺を震わせ、肋骨の奥まで「死」の響きを伝えてくる。


 鼻を突くのは、数万頭の馬が発する強烈な汗の匂いと、乾いた砂塵の苦み。そして、その奥に潜む、獲物を追い詰めた猛獣が放つような、冷たく鋭い殺気の臭いだ。


 地平線から湧き出したモンゴル軍の黒い列は、砂漠の陽炎に揺れながら、まるで生き物のようにうごめいている。彼らが引き連れているのは、単なる武力ではない。大地そのものを飲み込み、咀嚼そしゃくし、排泄していく、圧倒的な「生命の濁流」への畏怖が、アシャの全身の毛穴を戦慄させた。馬たちのいななきさえも、個別の感情を失い、一つの巨大な咆哮ほうこうとなって天を突いている。


 だが、真の恐怖は、彼らの「静寂」の中にあった。

 城壁の目前まで迫りながら、モンゴル軍からはときの声一つ上がらない。そこにあるのは、敵に対する憎悪でも、戦いの昂揚こうようでもなかった。


 彼らにとって、この攻城戦は「戦」ではない。それは、定められた規則ヤサに従って行われる、単なる「不要な構造物の処理」であった。


 モンゴル軍の陣形が、幾何学的な精密さで展開されていく。旗印の合図一つで、数千の騎馬が一点の乱れもなく旋回し、包囲網を完成させる。その動きには、大夏たいかが誇った洗練された官僚機構さえも凌駕りょうがする、徹底した「合理性」が宿っていた。


「……あれは、人間ではない」


 傍らで震える老将がつぶやいた。

 そう、彼らは「対話」を必要としない。彼らが提示するのは、降伏か、それとも死かという「二つの選択」のみ。交渉も、嘆願も、文字による美辞麗句も、彼らの冷徹な計算の中では「無意味な雑音」として切り捨てられる。


 城壁を叩く巨石の音は、破壊の響きではなく、事務官が不要な書類を破棄する際の冷淡な音のように、淡々と、規則的に繰り返された。


「来るぞッ!」


 アシャの叫びと共に、空を覆うほどの黒い影が降ってきた。

 モンゴル軍の投石機から放たれた巨石が、西夏が百年かけて積み上げた城壁の石材を、いとも容易く粉砕する。衝撃が足元を突き上げ、アシャは壁に叩きつけられた。


 砕け散る石の破片が頬を切り、熱い血がしたたる。口の中に広がるのは、砂と鉄の味。

 見上げれば、青かった空は黒煙に汚れ、太陽は濁った琥珀色に変色している。火を吹く矢が雨のように降り注ぎ、街の家々から立ち昇る「焼けた油の匂い」が鼻腔を焼く。


 これまで自分たちを守ってくれていた文字という名の知的な防壁が、剥き出しの質量と炎によって、あまりにも呆気なく融解していく感覚。

 叫び、走り、倒れていく兵士たちの肉体。それは、記述される前の「ただの肉」へと引き戻されていく悲鳴だった。文字という誇りを剥ぎ取られた人間が、いかにもろい生命であるかを、アシャは血の滴る視界の中で痛感していた。


 モンゴルの攻撃は、急所に正確な一撃を加える外科手術のように冷酷だった。

 彼らが真っ先に狙ったのは、食料庫でも武器庫でもなく、この街の「意思決定」を司る中枢――情報の結節点であった。


 伝令の道は完全に断たれ、各門との往来は途絶した。城壁の上で指揮を執ろうとする将軍たちは、部下たちの現状すら把握できず、ただ孤立した点として立ち尽くしている。

 西夏文字という高度な統治律によって統合されていた軍隊が、伝路を物理的に切断された瞬間、機能停止した手足の死骸の群れへと成り下がっていく。


 モンゴル兵たちは、捕らえた捕虜を処刑する際、決して言葉を交わさない。ただ事務的に列に並べ、効率よく首を落としていく。そこには殺戮の愉悦すらなく、ただ「敵対勢力の個体を削減する」という目的だけが存在していた。


 アシャは、その光景に「狂気」を見た。それは血に飢えた蛮族の狂気ではない。あまりにも正しすぎる「合理」が、生命の尊厳という概念を一切認識せずに突き進んでいく、知的な断絶の狂気であった。


 夕闇が迫り、興慶府は炎に照らされた地獄と化した。

 城外からは、依然として一定の間隔で地響きが聞こえてくる。それは「蒼き狼」の軍勢が、夜を徹して「処理」を継続するための足音だ。


 アシャは、血に染まった自分の手を見つめた。手のひらのしわに食い込んだ墨の跡と、いま新しく付着した生暖かい返り血。


「……国が、消される」


 それは敗北という言葉では生ぬるい。大夏という存在そのものが、この大地から、歴史の記述から、根こそぎ削り取られようとしている。


 砂漠の風が、熱風を運んでくる。それはかつて先祖たちが愛した自由な風ではなく、すべてを灰へと変える死神の吐息だった。


 アシャは、牙城の奥に眠る「万文字の地図」を思い浮かべした。あそこに記された美しい地名も、高貴な法も、いま地平を埋め尽くす狼たちの蹄の下で、ただの無価値な紙屑になろうとしている。

 圧倒的な物理力の前に、魂の要塞が悲鳴を上げている。


 アシャは、震える手で剣を握り直した。もはやこの戦いに、武人としての栄誉など存在しない。あるのは、この圧倒的な「無」に抗い、何としても自分たちの「存在の痕跡」を明日へ繋ぐための、絶望的なもがきだけだった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ