表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
雲の上の咆哮 ―羊の民、三千年の歌―  作者: 武陵隠者
第十三章:草原の死神、砂の静寂

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
92/135

第四節:灰の図書館、脳死する国家

 興慶府こうけいふの城門が内側から弾け飛んだ瞬間、それは「陥落」という劇的な幕切れですらなかった。


 なだれ込んできたモンゴルの兵たちは、略奪の愉悦に叫ぶこともなく、ただ淡々と、あらかじめ割り振られた「処理区画」へと散っていった。彼らにとって、この壮麗な都は解体されるべき巨大な「物資ざいこ」に過ぎなかった。


 アシャが目にしたのは、空を埋め尽くす不吉な「黒い雪」だった。


 西夏文字による膨大な蔵書を誇った国立図書館が、火を放たれたのだ。熱風にあおられ、焼け焦げた紙の断片が空高く舞い上がり、興慶府の街に降り注いでいる。


 鼻を突くのは、数多あまたの学僧たちが一生を捧げて調合した、上質な墨とにかわが焼ける重く、苦い匂い。それは、紙という皮膚に宿っていた「言葉」の断末魔のようだった。


 アシャは、足元に落ちた半焼の手書き経典を拾い上げようとしたが、指先が触れた瞬間にそれはもろく崩れ、灰となって風に消えた。


 喉が、狂おしいほどに乾く。

 喉を焼く熱風のせいだけではない。自分たちの歴史、先祖の誇り、神との対話のすべてが、この黒い灰となって消えていくことへの、魂の飢餓感だった。


 燃え盛る火柱を見つめる民たちの瞳からは、かつての誇り高い輝きが消え、ただ「自分を定義する何か」を失った、寄る辺ない獣のようなうつろな光が宿っていた。


 行政の中枢であった書記局では、さらに異様な光景が広がっていた。


 モンゴル兵たちは、そこにいた役人たちを殺すことすら後回しにし、ただ黙々と台帳や木簡を運び出し、中庭の炎に投げ込んでいた。彼らにとって、この国の「文字」は、反抗の種となる危険な「呪律プログラム」に他ならなかった。


「……何をしている。早く、次の指示を」


 一人の若き書記官が、目の前の炎を見つめたまま、虚空に向かって筆を動かしていた。


 彼の机の上には、もはや書き込むべき紙も、参照すべき法典も存在しない。だが、彼は止めることができない。文字という「統治律(OS)」によって全行動を規定されてきた彼にとって、その記述のしろを失うことは、精神の死を意味していた。


 周囲を見渡せば、高官も下級役人も、一様に魂が抜けたような顔で立ち尽くしている。

 彼らは、文字という「現実の設計図」を奪われた瞬間、自分が「誰であり、何をなすべきか」という定義を完全に失ったのだ。


 命令がなければ動けず、記録がなければ存在できない。高度にシステム化された国家は、その記録媒体を破壊されたことで、巨大な肉体だけを残して「脳死」に陥っていた。モンゴル軍は、その脳死状態の死体から、事務的に資源を接収しているに過ぎなかった。


「立て! 走るんだ、生きるために!」


 アシャは放心する若者の肩をつかみ、烈しく揺さぶった。


 だが、若者の体は泥のように重く、アシャの手をすり抜けて崩れ落ちる。文字という文明の服を脱がされた後の肉体は、あまりにも脆弱で、冷たい。


 かつて草原を駆けていた頃、タングートの民は文字など持たずとも、風の色を読み、大地の震えで敵を知ることができた。だが、数世代にわたって文字のおりの中に安住し、すべての感覚を「記述」に委ねてしまった彼らは、野生の皮膚感覚をとうの昔に失っていた。


 今、彼らの周囲に漂っているのは、知的な死の静寂だ。

 燃え上がる図書館の火照りが、アシャの頬を焼く。崩れ落ちる建物の音さえも、どこか遠い世界の出来事のように、現実味を失っていく。文明という名の「記憶」を剥ぎ取られた人間は、これほどまでにあっけなく、ただの「呼吸する肉」へと退行してしまうものなのか。


 モンゴルの司令官は、燃え盛る書物の山を馬の上から眺め、淡々と報告を受けていた。


「文字の根絶を確認せよ。石碑は砕き、紙は焼き、彫り師の指を折れ。この地に刻まれた『記述の跡』をすべて消去せよ」


 それは、憎しみからくる破壊ではなかった。

 彼らはただ、この土地の再利用を最適化するために、旧来の体系システム――大夏という存在の証(アイデンティティ)を、根絶フォーマットしているだけなのだ。


 文字が消えれば、歴史は消える。歴史が消えれば、民族という概念は雲散霧消し、後に残るのはモンゴルという巨大な装置に従順な、名もなき「労働力」という名の変数のみ。


 アシャは、立ち昇る黒煙の向こうに、自分たちの存在が世界から「消去」されていく冷徹なプロセスを見た。興慶府は、もはや国ではない。それはただの、情報の抜け殻となった廃墟だった。


 だが、その灰の雪が降る中で、アシャのふところには、まだかすかな重みが残っていた。


 一冊の小さな辞書。


 この「情報の処刑」から唯一逃れ得た、西夏の命の種火が、彼の胸元で密かに脈打っていた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ