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雲の上の咆哮 ―羊の民、三千年の歌―  作者: 武陵隠者
第十三章:草原の死神、砂の静寂

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第二節:震える地平、情報の壊死

 完璧な均衡を保っていた「情報の要塞」に最初の亀裂が入ったのは、天災の前触れにも似た、微細な沈黙からだった。

 大夏たいかという国家は、全土に張り巡らされた駅制と、それを繋ぐ「西夏文字」という共通言語の統治律(OS)によって、一つの生命体のように脈動していた。だが、その末梢神経が、いま、音もなく壊死し始めていた。


 興慶府の外郭、軍馬を管理する厩舎きゅうしゃでは、異様な光景が広がっていた。

 タングートの誇りである屈強な砂漠馬たちが、一頭残らず、北の空を向いて凍りついたように動かない。鼻孔を大きく広げ、微かな空気の震えを吸い込もうとしていた。


 元昊の血を引く若き王族、アシャは、愛馬の首筋に触れた。毛並みの下で、筋肉が細かく、しかし烈しく波打っている。

「どうした、落ち着け……」

 なだめるアシャの指先にも、不吉な微振動が伝わってきた。それは耳で聞く音ではない。大地の奥深くを伝わり、足の裏から骨を抜けて脳髄を揺さぶる、重低音のうなりだった。


 風が変わった。

 砂漠の乾いた匂いを吹き飛ばし、地平線の向こうから押し寄せてきたのは、耐え難いほど濃厚な「焼けた肉と獣の脂」の匂い。そして、千の命が一度に絶たれた時に立ち昇る、生暖かい血の霧の気配だった。


 馬たちが一斉にいななき、狂ったように壁を蹴り始める。ひづめが石に当たる硬い音が響く中、アシャは本能的な恐怖に喉を焼かれた。それは、捕食者が獲物の喉元に牙を立てる直前の、逃れられぬ死の匂いだった。


 同じ刻、王宮の書記局――この国の「脳」にあたる場所では、事務的な混乱が静かに、しかし致命的な速度で広がっていた。

黒水城こくすいじょうからの定期便が、予定を六刻過ぎても届きません」

「北西の監視所、三箇所。烽火のろしの確認、不能」

「駅使の報告によれば、街道の途中で『道そのものが消えていた』とのことです」


 若き書記官たちの声には、恐怖よりも困惑が混じっていた。彼らが信奉する西夏文字のシステムにおいて、「報告が届かない」という事象は定義されていない。すべての事象は文字に変換され、記録され、分類されるはずだった。


 壁に掲げられた巨大な領土地図。そこには、各地から届く文字情報に基づき、拠点の状況が刻一刻と書き込まれる。だが、北の辺境から始まった「沈黙」は、まるでインクがにじむように、地図の文字を次々と塗り潰していった。

 昨日まで「兵站へいたん異常なし」「麦の収穫良好」と精緻な文字で記述されていた都市が、何の説明もなく、ただの「空白」に変わっていく。


 それは情報の全暗転ブラックアウトだった。


 敵が攻めてきたという「記述」さえ届かない。軍令を飛ばしようにも、その送り先がこの世に存在しているのかすら判別できなかった。文字という統治律に依存しすぎた国家は、伝路ネットワークの一端が物理的に断ち切られた瞬間、その巨体をどう動かせばいいのかを忘れ、脳死状態に陥りつつあった。


 アシャは牙城の回廊を走り、中庭に集まった兵士たちの間を抜けた。

 彼らは武器を手にしているが、その目は泳いでいる。かつて文字を得て「文明の担い手」になったと誇っていた彼らの体から、あの野性味溢れる力強さが削ぎ落とされていた。

 重い鎧、複雑な儀礼、紙の上の法。それらに守られてきた彼らの肉体は、あまりにも「清潔」になりすぎている。砂漠の砂を噛み、獣の声を聴き、名もなき風となって駆けていた頃の記憶は、もはや経典の奥深くに埋もれていた。


 アシャは自分の手のひらを見た。筆を握りすぎた中指のタコが、皮肉にも彼が「文字の民」であることを証明している。だが、いま地平線を揺らしているあの巨大な震動は、文字では語れぬほど剥き出しの、命を喰らうための暴力だった。


「……報告は、もう必要ありません」

 書記局の長が、乾いた音を立てて筆を置いた。

 彼の前にある台帳は、真っ白なままだった。

「敵は、我らの『言葉』を相手にしていません。彼らはただ、大地の上にあるすべての構造物を、記述される前に、ちりへと還しているだけです」


 情報の壊死。


 それは、最先端のシステムが、石器時代の暴力によって根底から否定される瞬間の光景だった。


 西夏文字という名の防壁ファイアウォールは、敵が「ことわり」を持って攻めてくることを前提としていた。だが、北から迫る「蒼き狼」は、対話を拒み、ただ効率的に、事務的に、この土地からすべての文明の痕跡を削り取っていく。


 昨日まで届いていた軍報。親愛なる者からの手紙。

 それらが届かないのではない。それらを発信する「手」そのものが、もはやこの地上に存在しないのだ。


 興慶府を包む静寂は、琥珀の安寧から、墓場の静寂へと変質していた。

 アシャは、遠く北の空を仰いだ。

 そこには、地平線を埋め尽くす真っ黒な土煙が、まるで巨大な死神の鎌のように、空を切り裂いてこちらへと迫っていた。


 文字が、紙が、法が――大夏という精緻な虚構が、その一振りの前に崩れ去るまで、もう時間は残されていなかった。

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