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雲の上の咆哮 ―羊の民、三千年の歌―  作者: 武陵隠者
第十章:鏡像の理(ことわり)

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第三節:魂を縛る墨の檻

 塔の深奥、あるいは牙城の密室。野利仁栄やりじんえいが閉じこもるその空間は、もはや現世の尺度では測りきれない異界と化していた。

 卓の上には、墨を吸いすぎて重くしなった紙の山が、黒い地層のように積み上がっている。室内には、むせ返るような濃厚な松煙しょうえんの香りがよどみ、それは仁栄の肺の奥深くまで染み込んで、彼の呼吸そのものを黒く染め上げているようだった。


野性の捕獲、肉体的な変容

 仁栄は、震える指先で筆を浸した。

 彼の脳裏には、かつて馬の背に揺られ、果てしない地平線を追っていた頃の記憶が、鮮烈な「触感」として蘇る。砂漠の砂がつぶてとなって頬を打つ痛み。湿った土に残された、野生馬の蹄が描く歪な半円のわだち。獲物を捕らえんとする大鷹の、空を切り裂く羽音の重なり。


 彼はそれら「野性の律動」を、強引に四角い枠の中へと引きずり込んだ。


「――クゥ、ハッ……」


 喉から漏れるのは、言葉以前の呻きだ。筆先が紙に触れた瞬間、仁栄は自らの肉体が、砂漠の風そのものに引き絞られるような感覚に陥った。

 一本の「払い」は、単なる線ではない。それは冬の突風が岩肌を削る鋭利な傷跡であり、執拗に書き加えられる「点」は、雪原に滴り落ちた獲物の血の温もりだ。


 自然界に存在する形なき生命の力を、墨という名の鎖で縛り上げ、静止した幾何学へと押し込めていく。その作業には、聖なる精霊を捕らえて標本にするような、おぞましい背徳感が伴った。


密実なる拒絶、知の城壁

 しかし、その創造は「美」のためではない。元昊げんこうが求めたのは、一瞥しただけで他者の思考を拒絶する、圧倒的な「閉塞」であった。

 仁栄は、一文字の中に執拗なまでの線を詰め込んだ。漢字であればわずか三画で済む概念に、彼はあえて二十、三十の線を書き加える。


 「人」という概念を記すために、その骨格を分解し、内側に複雑な格子を組み、外側を鏡合わせの部首で幾重にも包み込む。そうして出来上がった文字は、一辺が三寸にも満たない正方形の中に、狂気じみた密度で線が凝縮された「墨の塊」であった。


「……これでいい。読みやすくあってはならない。一文字一文字が、漢人どもを阻む槍の林でなければぬ」


 それは、実用性を度外視した「過剰なる密度の美学」。平均二十五画という異常な重厚さは、もはや文字としての機能を越え、入る者を拒む「知の不落の城壁」としての冷徹な美を放ち始めていた。ただ外敵を防ぐのではない。それは、読もうとする漢人の端正な認知体系そのものを、内側から締め上げて処刑する目に見えぬ罠でもあった。


 かつて彼らが持っていた風のような身軽さは、ここには微塵も残っていない。そこにあるのは、国家という巨大なかせを自ら背負い、重い石材となって大地に根を張ろうとする、西夏の重苦しい自意識そのものであった。


脈動する墨、生命の定着

 仁栄が筆を置くと、静寂の中で「シュッ……」という音が聞こえた気がした。書き終えたばかりの文字が、紙の繊維に染み込み、定着していく音。

 彼は、その文字の上にそっと掌を重ねた。乾いているはずの墨の線から、微かな「脈動」が伝わってくる。


 砂漠の風も、馬の蹄の音も、骨の亀裂も――かつて形を持たなかったすべてが、この複雑な線の網目の中に閉じ込められ、静かに息づいている。

 掌を通じて、大地の奥底からせり上がってくるような冷たい熱が流れ込んできた。生命を殺して「記述」という檻に閉じ込めたはずが、逆に文字そのものが新しい「命」を授かったことを意味していた。


迷宮の完成、ことわりの依り代

 仁栄は、ふと自らの手を見た。墨は爪の間だけでなく、手の甲のシワひとつひとつにまで入り込み、もはや皮膚の文様もんようを塗り替えている。

 彼という人間そのものが、西夏文字という巨大な「独自のことわり」の一部として作り替えられつつあった。外界で話されている漢字の響きが、次第に遠のいていく。


 この部屋で仁栄が創り出しているのは、単なる文字ではない。一度足を踏み入れれば、中華の思考へは二度と戻ることができない、完璧な「鏡の迷宮」であった。


 扉の向こうで、元昊が満足げに目を細めている気配がした。

 この「過剰な重み」こそが、大夏を中華という巨大な引力から切り離し、永遠に孤立させるための、唯一のいかり――敵の知性を狂わせ、自らの国を永遠に護るための、漆黒の認知兵器になるのだ。

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